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麦茶

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夏のソフトドリンクといえば、昔は「麦茶」が定番であった。

我が家でも、初夏になれば母親が寸胴の中にタップリと水を入れて、
この中に「麦茶」のパックを3~4個放り込み、
これをしっかりと時間をかけて煮出していた。
充分に「麦茶」の成分が出切ったら、パックを取り出して、
そのまま自然に冷却して、常温になるのを待つ。
常温になった所で、それぞれの容器に移して冷蔵庫でさらに冷やす。
我が家は子供が3人もいたために、「麦茶」の消費量が多く、
母親はこの「麦茶」製作を、
毎日のように行なわなければならなかった。

現在でこそ、スーパーやコンビニエンスストアには
ペットボトル入りの飲料が大量に販売されているが、
自分が子供だった当時、
コンビニエンスストアもペットボトルもなく、
スーパーのドリンク売り場も、現在のそれに比べると
商品の数も種類も、圧倒的に少なかった。
一応、ビン入りのサイダーコーラ、缶ジュース、
牛乳などのパック入りの飲料があるにはあったのだが、
これらはどれも割高で、夏の子供の、激しい喉の渇きを癒すためには、
相当の出費を覚悟しなければならなかった。
もちろん、始末屋であったうちの母親が、
そんな出費を容認するはずがない。
夏になると、50袋入りくらいで販売されている
徳用の「麦茶」パックを買ってきて、
せっせと「麦茶」の大量生産にとりかかった。
普通に販売されている「麦茶」パックは、
1袋で1ℓの「麦茶」を煮出すことが出来るので、
50パック入りのものを買っておけば、
50ℓの「麦茶」を作ることが出来る。
仮に6人家族で、1日に5ℓの「麦茶」を消費するとすれば、
これで10日分の「麦茶」を作れるわけである。
徳用なら、50パック入りでも、せいぜい2~300円程度である。
ひと月分で考えても、わずか1000円足らずで、ことが足りる。
うちの母親が断固として「麦茶」を選択していたのも、
無理のない話である。

大方の場合、家族が夕食を食べ終わり、後片付けが終わった後、
母親が台所で、大量の「麦茶」を煮出していた。
寸胴に一杯の「麦茶」を煮出した後、
そのまま朝まで放置しておいて、これを常温まで冷ます。
朝一番に、これを1~2ℓの容器に小分けして
冷蔵庫の中に入れるのである。
夏とはいえ、朝方はまだ気温も低く、それほど喉は乾かない。
それを知りつくした上での、「麦茶」生産体制であった。

「麦茶」は、焙煎した大麦を煎じて作った飲料だ。
「茶」という名を冠しているが、中には全く「茶」が入っていない。
茶外茶」と呼ばれるものの1つである。
現在でこそ「麦茶」という名前が一般的になり、
ほぼ全国的に「麦茶」呼びで統一されてしまっているが、
これを「麦茶」と呼ぶようになったのは、それほど古いことではない。
昭和40年以前までは、「麦茶」という呼び方の他に、
「麦湯(むぎゆ)」という呼ばれ方もしており、
元来、日本では、この「麦湯」という名称の方が一般的であった。
「麦茶」という呼び方が始まったのは、
明治時代に西洋から伝わった、紅茶やコーヒーを楽しむ
「カフェ」の誕生が、そのきっかけだったとされる。
もちろん、それ以前の日本では「麦茶」をいう名前はなく、
全てが「麦湯」呼びであった。

大麦を焙煎して使っているため、
同じく大麦を焙煎して粉状に加工している「はったい粉」と
非常に似た香りがする。
一般的な「茶」に含まれているカフェインが、
全く含まれていないため、幼児が飲んでも安心である。
ただ、モノによっては色を出しやすくするため、
紅茶やウーロン茶の粉末を混ぜた商品もある。
これらの商品には、当然、カフェインやタンニンが含まれている。
これらを気にする人の場合、原材料にどんなものが使われているか、
しっかりと原材料表示を確認しておく必要がある。

「麦茶」の原料である大麦が日本に伝来したのは、
縄文時代の終わりから、弥生時代のはじめごろのことだとされている。
奈良時代になると、大麦は全国的に栽培されるようになり、
平安時代には、白飯に大麦を混ぜ込んだ、麦飯が作られるようになる。
大麦を焙煎し、これを煎じて飲むようになったのも、
このころのことらしい。
「茶」が、鎌倉時代に禅僧の手によって持ち込まれたことを考えると、
日本において「麦茶」は「茶」よりも、
長い歴史を持っていることになる。
(もちろん、そのころの名前は「麦茶」ではなく、
 「麦湯」だったわけだが……)
当時の「麦茶」は、貴族のみが飲用することが出来たという
いわゆる高貴な飲み物であった。
これが時代を下れば、一般家庭において
もっとも安価な夏の飲み物になるのだから、
時の移り変わりと、価値観の変化は面白い。
やがて時代が移り、鎌倉時代や戦国時代になると、
多くの有名な武将たちも、陣屋の中へ「麦茶」を持ち込み、
戦の最中でもこれを飲んでいたという。
もちろん、このころには冷蔵庫などなかったわけだから、
ホットドリンクとしての「麦茶」を飲むか、
常温まで冷ました「麦茶」を飲むかだったろう。
いずれにしても、茶道の台頭によって日本茶が主流になるまでは、
相当、幅を利かせていたであろうことは、想像に難くない。

「麦茶」が、一般庶民の間で飲用されるようになったのは、
江戸時代も末期になってからのことである。
当時、記された「寛天見聞記」や「江戸府内風俗往来」などには、
夏になると、夕暮れごろから町に「麦湯」と書かれた行灯が並び、
「麦湯」を販売していたという。
1杯4文という価格で、これを商っていたのは
15歳前後の少女であったことから、「麦湯」屋は大繁盛したという。
「麦湯」の清涼感の他に、男のスケベ心も
大繁盛の原動力であったことは容易に想像できる。
基本的に、「麦湯」は一年中飲むことが出来たようだが、
やはり大麦が収穫される初夏の時期は、
「旬」ということで、店は特に賑わっていたようだ。

昭和の時代に入り、冷蔵庫が一般家庭に常備されるようになると、
「麦茶」はこれによって冷やされ、
一種のアイスドリンクとして愛飲されるようになった。
現在では、ほとんどの人が
「麦茶」をアイスで飲んでいることを考えると、
この出会いは、「麦茶」の飲み方に革命を起こしたといえる。
昭和40年ごろには、現在、主流となっている
ティーバッグ式の「麦茶」が販売され、その手軽さから大ヒット。
以降は、このティーバッグ式が「麦茶」の主流となった。
現在では、ペットボトル入りの「麦茶」も発売され、
こちらも多くの人に愛飲されている。

6月に入り、気温・湿度共に高くなり、
いよいよ冷たい「麦茶」が嬉しい季節になった。
本来であれば、我が家でも徳用ティーバッグを買ってきて、
「麦茶」の量産体勢に入る所なのだが、
実は、去年辺りから、これがちょっと変わってきた。
と、いうのも、友人から「ドクダミ茶」の作り方を教わり、
庭に大量に生えているドクダミの有効利用として、
この「ドクダミ茶」を作るようになったからだ。
ベランダにブルーシートを広げ、この上でドクダミを乾燥させれば、
わりと簡単に「ドクダミ茶」は出来上がる。
「麦茶」も、色々とその健康効果が謳われるが、
「ドクダミ茶」は、それ以上に健康効果が豊富である。

そんなわけで、ここ1~2年は「ドクダミ茶」に
夏の主役を譲っているのだが、ある程度、
「ドクダミ茶」に飽きてきたら、
今度は「麦茶」と「ドクダミ茶」が、
夏のダブルエースということになるだろう。

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