たつの市民としては、実に言いにくいことだが、
自分は子供のころ、素麺が好きではなかった。
素麺の名産地、龍野生まれの人間としては、これはなかなか口にし辛いことだ。
現在では、子供のころの好き嫌いもほぼ無くなり、
素麺も普通に食べれるようになったが、
昔、それを出された時には、正直、げんなりとしていたのである。
たつの市の名産品、ということになると、
まず第一に醤油が思い浮かぶ。
播州龍野は、淡口醤油発祥の地でもあるからだ。
そしてそれと同じように、素麺も名産品である。
これは「揖保の糸」というブランド名で、全国に知られている。
奇しくも、素麺と、そのツユに使われる醤油を、同じ場所で生産しているのだ。
奇妙な符号、と考えることもできるし、
当然の結果、と考えることもできる。
ただ播磨地方では昔から、小麦、大豆、塩が生産されていたため、
醤油を作るにも、素麺を作るにも、材料が揃っていた。
龍野で醤油が造られ始めたのが安土桃山時代、
同じように素麺が作られ始めたのは、
室町時代のころではないかと考えられている。
これは太子町斑鳩寺の寺院日誌「鵤庄引付」、1418年の記述の中に、
「サウメン」という表記があるからで、
これが播磨地方の素麺の記録では、最古のものとなっている。
少なくとも室町時代には、播磨地方に素麺が存在していたのは間違いなく、
それがどれほどの規模であったのかは不明だが、
当時の太子町近辺で、生産されていたと考えられる。
1461年には、伊和神社の社殿造営の祝言に素麺が使われたという
記録も残っている。
もっともこのころ(室町時代)は、まだ大量生産はされておらず、
これが大量生産されだすのは、江戸時代中期以降だと考えられている。
江戸時代になると、副業として素麺を作る農家が増えていった。
素麺は龍野藩の「許可業種」になり、生産が奨励された。
しかし中には粗製濫造し、質の悪い素麺を作ることで、
産地の信用を落とす生産者も現れはじめた。
これを取り締まるため、龍野藩・新宮藩・林田藩の素麺屋が集まり、
品質についての取り決めをかわした。
その時の取り決めを書き記したのが、「素麺屋仲間取締方申合文書」である。
これによると、違反したものには2両の違約金がかせられており、
かなり厳しい取り決めだったようだ。
明治時代に入り、「藩」の保護を失った素麺業者たちだが、
業者たち自身が、その代わりとなる組織を立ち上げ、素麺の生産は続けられる。
生産量は順調に伸び続け、昭和6年(1931年)には
998499箱を生産している。
年間100万箱に迫る勢いだ。
しかし、戦争の影響により、昭和16年(1941年)に
政府による生産調整を受けることになり、生産量は低下していった。
終戦を迎えた昭和20年(1945年)、生産量は、
年間120000箱まで落ち込んでいた。
しかし再びここから盛り返し、生産量を回復させていく。
昭和51年(1976年)には、播州手延べ素麺の商標を「揖保の糸」に統一。
昭和59年(1984年)、戦前は届かなかった、生産量100万箱を突破。
以降は、播州手延べ素麺「揖保の糸」で、販路を拡大していき、
現在では年間150万箱の出荷数を達成している。
日本における素麺のシェアも、45%を誇り、
現在、日本でもっとも食べられている素麺、ということになっている。
素麺というのは、基本的に冷やして食べるものである。
そのため、素麺=夏というイメージが定着している。
夏のお中元に「素麺」というのは、一種の定番のようになっていて、
当然、龍野市にある我が家でも、
お中元として素麺が送られてくることがあった。
素麺の名産地である龍野市へ、お中元に「素麺」である。
色々と突っ込みたい所はあるのだが、さすがに相手に何か言うこともできない。
しかも送られてくる素麺は、「揖保の糸」以外のものが多かった。
相手が、こちらが「揖保の糸」を食べ慣れているとみて遠慮したのか、
あるいは、龍野市が素麺の生産量日本一であることを知らないのか……。
恐らくは、後者であろう。
そういう相手に、特に何も言わなかったため、
わりと毎年、素麺がお中元として送られてくる傾向があった。
必然的に、我が家ではその素麺を消費せざるを得ず、
(まさか、龍野市で周りの家に「揖保の糸」以外の素麺を、
配って歩くこともできないので……)
何故か「揖保の糸」の生産地、龍野市にある我が家では、
せっせと他のブランドの素麺を食べていたのだ。
なんとも、ちぐはぐな状況であった。
相手によっては、よりにもよって「揖保の糸」を
お中元として送ってくる人もいた。
もちろん、そういう相手は近隣の人ではなく、遠隔地の人が多かった。
きっと、「揖保の糸」の生産地が、兵庫県龍野市であることを知らないのだろう。
九州や新潟などから、お中元として送られてくる「揖保の糸」。
こういうのも故郷に錦を飾る、ということになるのだろうか?
それとも、一種の出戻りだろうか?
地元民としては、嬉しいような、嬉しくないような、
なんとも複雑な「逆輸入品」であった。
しかしそれから数十年。
我が家に、お中元として「素麺」を送ってくる人はいなくなった。
たつの=素麺という図式が、ようやく全国に認知されたのかもしれない。