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八つ橋

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土産物には、定番がある。

北海道土産といえば、
「白い恋人」や「バター飴」などが定番だし、
沖縄土産といえば、「ちんすこう」などが定番だ。
岡山土産といえば、「きびだんご」が定番であるし、
伊勢土産といえば、「赤福」が定番である。
長崎土産といえば、「カステラ」が定番だし、
広島土産といえば、「紅葉饅頭」が定番ということになる。
……。
見事にお菓子ばかりだ。
これは土産物として、ある程度日持ちすることと、
会社など、複数人いる所へ土産として持って行く場合、
1人1つ、といった風につまんでもらうことが出来て、
経済的ということもあるだろう。
もちろん、これを書いている自分自身が、
大のお菓子好きであるため、
そちら方向にばかり目がいくというのも否定出来ない事実だが、
客観的に見ても、お菓子というのはお土産向きの
特性を有している。
これは、逆に言えば、
お菓子が豊富にある町では、
必然的に土産物も豊富になると考えることも出来る。
では、お菓子が豊富な町とはどこか?

これはやはり京都だろう。
京都には、それこそ星の数ほどの和菓子屋があり、
ありとあらゆる種類の和菓子が揃っている。
少なくとも「和菓子」というジャンルに限っていえば、
京都という町は、一種の聖地と言っていい。
東京で老舗として繁盛している和菓子屋なども、
もともとは京都から移ってきた店だとか、
京都から支店として出店してきた店というのが
かなりの数を占めている。
まさに京都は「お菓子の都」といってもいい。
そんな京都のことだから、土産物のお菓子も
様々なものが妍を競っているのだろうな、と思ってしまうが、
京都の土産菓子としては
「生八つ橋」が圧倒的なシェアを誇っている。
よくよく、思い出してみてほしい。
京都へ旅行した友人たちが、土産物として渡してくれるのは、
圧倒的に「生八つ橋」ではなかっただろうか?
そう、和菓子の聖地・京都において、
お土産というジャンルを牛耳っている「八つ橋」が、
今回のテーマである。

さて、先ほど、京都の土産菓子としては
「生八つ橋」が圧倒的なシェアを誇っている、と書いた。
何気に見落としてしまいがちだが、「生」八つ橋なのである。
ということは当然、「生」では無い「八つ橋」も
存在していることになる。
「生」ということを、わざわざアピールしているということは、
元々の「八つ橋」は「生」ではなかったことになる。
実は元々の「八つ橋」は、現在販売されている
「生八つ橋」を焼いたものである。
え?「生八つ橋」って、中にアンコが入っているよね?
と、いう人もいるだろうが、
本来、「生八つ橋」というのは、あのアンコの入っていない
皮の部分だけの商品なのである。
だから、「八つ橋」という名前を冠するお菓子は、
大別すると「八つ橋」の他、「生八つ橋」と「餡入り生八つ橋」の
3種類が存在していることになる。
京都の土産物売り場をしっかりと見てもらえれば、
この3種類の「八つ橋」が並んでいるのが確認出来る。
この3種類の「八つ橋」のうち、
一番最初の「八つ橋」が、焼いてある「八つ橋」なのである。

「八つ橋」が初めて作られたのは、
元禄2年(1689年)のことだ。
京都・聖護院の森の黒谷参道の茶店で供されたのが、
始まりとされる。
米粉、砂糖、ニッキ(肉桂・シナモン)を混ぜて蒸し、
これを薄く延ばした生地を焼き上げた、
堅焼き煎餅の一種であった。
これが「八つ橋」と呼ばれるようになったのには、
いくつかの説がある。

1つは、江戸時代の箏曲の作曲家
八橋検校(やつはしけんぎょう)に由来するというものだ。
日頃から「もの」を大切にしていた彼は、
米櫃に残っているわずかな米も大切なものと考え、
これを使って堅焼き煎餅を作るように教えたという。
検校がその人生を終えた後、彼の遺徳を偲んで作られた
「箏」の形をした堅焼き煎餅は、京都の茶店で人気を博した。
先に書いたように、それが黒谷参道の茶店だったのだろう。
この堅焼き煎餅は、彼にちなんで「八つ橋」と名付けられた。
ちなみに八橋検校が亡くなったのが1685年。
彼を偲んで「八つ橋」が作られたと考えてみれば、
時代的には辻褄が合っている。
だが、この当時はまだ、砂糖にしてもニッキにしても、
国産のものはまだ存在しておらず、
その全てを輸入に頼っていた。
そのように珍しい輸入物の原料を使っていたことを考えると、
思いのほか、「八つ橋」は高価な菓子だったのかも知れない。

もう1つは、「伊勢物語」に出てくる
三河国の「八つ橋」という橋を
模しているという説である。
しかし本当に「八つ橋」が橋を模しているのであれば、
横方向ではなく、縦方向に丸みを帯びている筈である。
また、どうして京都から遠く離れた三河国の橋を
菓子のモチーフにしたのか?という点については
全く語られていない。
恐らくは東海道を旅して京都に辿り着いた旅人が、
京都で「八つ橋」という名前のお菓子を見つけて、
三河国の「八つ橋」と混同したのだろう。

現在も残る、堅焼き煎餅としての「八つ橋」の形を見るに、
「橋」ではなく、「箏」をモチーフにしているのは、
火を見るより明らかである。
それを考えると、やはり「八つ橋」は
八橋検校にちなんでいる、と考えた方が良さそうだ。

さて、「八つ橋」の製法を改めて見直してみると、
米粉に砂糖をニッキを混ぜて蒸し上げ、
これを薄く延ばして焼き上げる、というものである。
この「焼き上げる」という行程を抜くと、
ニッキという香料は入っているものの、
その製法は「団子」を作っているのと変わらない。
(「団子」の場合は、蒸し上げた後に
 これを「搗く」という行程が入るが……)
つまり、焼き上げる前の段階でもすでに火が通り、
そのまま食べることが出来るのである。
そしてこれをそのまま食べるものが「生八つ橋」である。
それまでの行程で、「蒸」されているわけだから、
厳密にいえば「生」とは言い切れないかも知れないが、
さらにこれを「焼いて」いるものと比べれば、
確かに「生」であるといえる。
この「生八つ橋」が売り出されたのは、戦後、
1960年代のことである。
この「生八つ橋」には、皮だけのものと、
皮を折り曲げて、中に餡を挟んだものがある。
いわゆる「餡入り生八つ橋」だ。
現在では生地の中に抹茶やゴマを混ぜたものや、
餡の代わりにチョコやクリームを挟んだものも販売されている。

この「生八つ橋」、先に書いたように、
団子と同じようなものなので、その賞味期限は
焼いてあるものほどには、長くない。
真空パック入りのものでも10日前後、
そうでないものに関しては2~4日程度となっている。
これでは交通事情の悪かった江戸時代などでは、
とても土産として持ち帰ることは出来なかっただろう。
戦後、飛行機や新幹線など
交通インフラが充実することによってはじめて、
「生八つ橋」は京都土産になることが出来たのである。

先に書いたように、交通インフラが充実することによって、
京都古来の和菓子の数々も、
土産物として持ち帰ることが可能になった。
しかし、そんな時代になっても、
相変わらず「八つ橋」は、京都土産として
圧倒的なシェアを誇っている。

「八つ橋」だけが、京都のお菓子でないのは確かだが、
「八つ橋」が、京都を代表するお菓子なのもまた、
確かなことなのである。

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