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ちくわ

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学生時代、6年間は給食で、6年間は弁当、
そして4年間は学食で昼食をとっていた。

年代別に分けると、小学生時代が給食、
中学・高校時代が弁当、大学時代が学食、ということになる。
つまり中学・高校という、
男子にとって、もっとも栄養を必要とする時期の昼食が、
全て弁当だったわけだ。
親たちにしてみれば、そこの所こそ
給食で賄ってほしかったと思うが、
市や学校の方にしても、
そんな食欲の権化どもの昼食を用意するのは、
まっぴら御免だったのだろう。
ともあれ、うちの3兄弟たちはこの6年間を
母親謹製の弁当で過ごしてきた。
3兄弟の一番上である自分が中学に入学し、
3兄弟の一番下である弟が高校を卒業するまで、
母親は実に10年以上、弁当を作り続けてきたことになる。
全く頭の下がる作業である。

だが、こう言っては何だが、
うちの母親は妙に要領のいい所があった。
弁当を作るにしても、特に作業効率を優先していた。
そのためか、日々の弁当のバラエティは極めて少なかった。
弁当の内容を列記してみよう。

・ごはん(たまに梅干しあり)
・卵焼き(2切れ)
・揚げ物(一口カツ、メンチカツ、魚フライ、たまに海老フライ)
・ちくわ(キュウリ入り、あるいはチーズ入り)
・プチトマト(2個)

であった。
揚げ物については、全て買い置きの冷凍食品のそれで、
ここに書いてある4種類がローテーションで入っていた。
ごはんは100%白ご飯で、
炊き込みご飯などが入っていることはなく、
ついてくる漬け物も、梅干しオンリーであった。
プチトマトと卵焼きに関しては、
全く不動のメニューであり、6年間ほぼ毎日入っており、
ここに変化があったときは、事件といってよかった。
そして「ちくわ」である。
穴の中に細切りにしたキュウリか、チーズが入っていて、
それが2個、きちんと並んでいた。
中に入っているものこそ、きゅうり、チーズと変化はあるものの、
基本的にはこれも、不動のメニューといってよかった。
ご飯を含め、ほぼ4つの品が不動のメニューであり、
揚げ物に関しても、3〜4種類のバリエーションしかない。
しかもどの揚げ物もパン粉をつけてフライしてあるので、
見た目はほとんど変わらない。
仮に毎日の弁当の内容を写真に収め、
その写真をずらりと並べたら、
高難度の「間違い探し」が出来上がるだろう。

しかし当時の自分は結構な暢気者であり、
この判で押したような弁当に、何も不満を持たず、
文句を言うことも無かった。
4年後、妹が中学校に入学する際には、
恐らくこの定番弁当しか作るつもりが無くなっていたのか、
兄弟揃って、この定番弁当を食べることになった。
一番下の弟も、弁当は常に同じだったといっていたので、
うちの母親は子供たちの中学・高校の弁当を、
この1種類で貫き通したことになる。

つまり何が言いたいかといえば、
自分は、もっとも腹の減る時代、
毎日のように「ちくわ」を食べてきたということである。
(調理的な工夫は、ほとんどないメニューだったが……)

「ちくわ」は、魚肉のすり身を竹の棒などに巻き付け、
焼いたり、蒸したりした加工食品である。
現在では、工場などで大量生産されるため、
竹の棒を使わなくなっている所も多い。
「ちくわ」を漢字で書くと「竹輪」となるが、
これは竹の棒に巻き付けて作ったからではなく、
「ちくわ」を切ると、竹の切り口に似ているためである。

「ちくわ」の歴史は古く、3世紀の古墳時代、
三韓征伐に赴く途中の神功皇后が、
九州生田の杜(現在の小倉)に立ち寄った際に、
鉾(槍)の先に魚肉のすり身をくっつけ、
火であぶって食べたという伝説がある。
これが正しいとすれば、「ちくわ」には
少なくとも1700年以上の歴史があることになる。
この食べ物は、蒲の穂に似ており、
さらに鉾に巻いて焼いた所から
後にこれを「蒲鉾」と呼ぶようになった。
……。
え?「蒲鉾」?と、驚かれるだろう。
そう、「ちくわ」はもともと「蒲鉾」であった。
今日の「蒲鉾」、
つまり板に張り付いた「蒲鉾」が誕生するのは、
もっとはるか後代のことである。
平安時代の宴席料理の献立が記された書の中に、
「蒲鉾」(ちくわ)が絵入りで載っている。
ただ、平安時代、京都で今日の「ちくわ」や
「蒲鉾」の原料としている海の生魚が手に入ったとは思えない。
室町時代に記された「宗五大草紙」には、
「かまぼこはなまず本也、蒲の穂に似せたるなり」
と書かれていることから、
当時の「蒲鉾」(ちくわ)は、ナマズをはじめとする
淡水魚の魚肉を持って作られていたようだ。
ちなみに現在の「蒲鉾」、つまり「板蒲鉾」が作られたのは、
室町時代のことである。
1504年に書かれた「食物服用之巻」の中には
「かまぼこは右にて取り上げ、左へ取り替え、上はなし、
 中はゆび。下は板ともにきこしめすなり」とあり、
下に板のある「蒲鉾」について書かれている。
これは「蒲鉾」(ちくわ)に対し、
「板蒲鉾(いたかまぼこ)」と呼ばれていたようである。

神功皇后などの皇族や、平安貴族の宴席料理の中に
入っていることから分かるように、
当時の「蒲鉾」(ちくわ)は、相当な高級品であった。
大名や旗本しか食べられなかったと、されていることからも、
江戸時代の初期ごろまでは、高級品であり続けたようだ。
しかし江戸時代中期以降には、
商人、町人と、次第に「蒲鉾」(ちくわ)は広まっていった。
江戸時代に入り、コメ中心の経済から貨幣経済へと移行すると、
コメで給与をもらっていた武士階級は貧しくなり、
「蒲鉾」(ちくわ)を食べることが、出来なくなってしまった。
逆に、貨幣経済の中心のいた商人たちは、次第に裕福になっていき、
「蒲鉾」(ちくわ)ばかりでなく、
豪華なものを食べるようになっていった。
面白くないのは貧しい武士たちである。
「町人の分際で、武士の魂である「鉾」を食べるとは何事か!」
と、嫌がらせを言うものも現れた。
お前等の魂は刀じゃなかったのか?と、
江戸時代の庶民たちが突っ込んだのかは知らないが、
とりあえず、「蒲鉾」の名前を使うのを止め、
切り口が竹の輪に似ていることから
「竹輪」と名前を改めたのである。
この「ちくわ」というのは、小うるさい武士たちの目をごまかす
一種の隠語で、結局、商人たちは変わらず
「ちくわ」を食べ続けたのである。
これが江戸時代末期のことである。
それまでの「蒲鉾」は「ちくわ」となり、
それまでの「板蒲鉾」が「蒲鉾」へと名前を変えたのである。

さて、学生時代、弁当のおかずとして
ほぼ毎日「ちくわ」を食べ続けてきた。
累計すれば、どれほどの量の「ちくわ」を食べてきたのか、
ちょっと想像もつかない。
しかし、弁当に入っていた「ちくわ」は
キュウリやチーズが入っていたものの、結局「生」であった。
大人になり、「ちくわ」を様々に調理する方法も覚えたが、
ほとんどの場合、気がつけば袋を破り、
生のまま「ちくわ」にかじりついている。

どうもこのクセだけは、この先も治りそうにない。

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