「御座候」といえば、回転焼きをさす。
大方の場合、これは正しい。
しかし、世の中には「御座候」といえば、
「担々麺」というイメージを持つ人間がいる。
自分なども、どちらかといえば「御座候」=「担々麺」のイメージを持っている。
何故か?
かつて、JR姫路駅の地下で、回転焼きと一緒に担々麺を売っていたからである。
もちろんこれは、回転焼きのようにテイクアウトではなく、
そのままカウンターに座って、担々麺を食べる形式だった。
カウンターのみで、テーブル席はない。
席が満員のときは、早く食べ終わりそうな客の後ろに立つ。
行列という概念はなく、前の客がいかに早く食べ終わるかを、
見極める必要があった。
担々麺だけでなく、シューマイや餃子もあった。
担々麺は当時、1杯200円ほどで、現在の牛丼よりも安かった。
餃子にしても、ひとつのサイズが、よその餃子の倍ほどもあった。
何か用事があって、姫路駅に行った際には、必ずこれを食べていた。
思えば、これが外でラーメンや餃子を食べた、最初であった。
つまり自分のラーメン歴は、担々麺によって始まったことになる。
今回は、この「担々麺」について書いていく。
先に、自分のラーメン歴は、担々麺によって始まったと書いたが、
実は担々麺はラーメンではない。
ラーメンと同じように、中国からやってきた麺料理なのは、間違いがないが、
ラーメンとは全くの別物である。
担々麺が作られたのは、1840年ごろの中国四川省・成都だ。
店売りではなく、屋台であった。
天秤棒を担ぎ、片方には七輪と鍋を、
もう片方には麺、調味料、食器をぶら下げていた。
スープは重くて持ち運べないので、当初の担々麺はスープのない、
一種の「和えソバ」であった。
茹でた麺に、醤油ベースのタレを絡め、豚肉のそぼろ、ザーサイ、
ねぎを刻んだものをのせて、供された。
「担々麺」の名前も、天秤棒を「担ぐ」ことからつけられている。
これを日本に持ち込んだのが、陳健民である。
麻婆豆腐などの四川料理を日本へ持ち込み、これを定着させた人物だ。
彼は、担々麺にアレンジを加えた。
日本のラーメンのように、「汁ソバ」として、作り直したである。
もともとは、「和えソバ」としての「担々麺」を、
販売していたのだが、こちらは人気が出なかったらしい。
そのため、アレンジを加え、現在の形になった。
ひょっとしたら、日本人に人気のあったラーメンの形を、模したのかもしれない。
かくして陳健民の手によって、「汁ソバ」として生まれ変わった担々麺は、
日本人に受け入れられていったのである。
現在、日本でアレンジされた「汁ソバ」としての担々麺は、
中国に逆輸入されており、
中国でも、「日本式担々麺」を売っているところもある。
さて、話を「御座候」に戻そう。
今でこそメジャーになり、そこら辺の中華料理屋でも、
メニューに「担々麺」の名前があるが、
自分が子供のころは、今ほどの知名度はなかった。
そんな中、何故か回転焼きの店である、「御座候」で「担々麺」を販売していた。
あんこたっぷりの回転焼きと、「担々麺」。
どういういきさつがあって、同じ店で出すことになったのかは、わからない。
ただ、これは、姫路に来なければ食べることができない、ご当地B級グルメだ。
子供のころから、「御座候」の担々麺で育ったため、
自分にとっては、これがデフォルトの担々麺になっているが、
実は、この「御座候」の担々麺は、よそで食べるものとは違っている。
どこが違うのか?
まず、見た目が全く違う。
普通の担々麺は、赤みを帯びたスープの真ん中に、豚のそぼろが盛られ、
その隣に湯通ししたチンゲンサイが横たわっている。
胡麻を使っているが、完全にペースト状になるまで擦っているので、
胡麻のつぶつぶ感というものは、全く残っていない。
ところが「御座候」のものだと、茶色いスープの上に、
胡麻の粒が大量に浮かんでいる。
さらに具材がねぎ、もやし、刻んだザーサイ、などである。
確か、野菜入りというものがあり、それを頼むと、
何故かコーンとわかめがプラスされた。
担々麺というと、辛いというイメージがあるが、
ここの担々麺は、それほどキツい辛さはない。
キツい辛さがなく、財布にやさしいとなれば、子供にはうれしい。
よそでラーメン頼むと500円はすることを考えれば、
200円ほどで食べることができる、「御座候」の担々麺は、
まさに子供の味方であった。
自分がよく食べていた子供時代、大人に混じって子供の姿も多かった。
自分のように、ラーメンといえば、「御座候」の担々麺という子供も、
姫路近辺には、相当数いたのではないだろうか?
現在、姫路駅が大改修されて、かつて姫路駅の地下にあった「御座候」も、
新しくなった駅ビルに移転している。
長らく姫路駅には行っていないが、
今でも、かつてと同じ味が、味わえるのだろうか?