前回、リンゴ狩りの経験から、リンゴについて書いた。
その時にも書いたが、自分にはもうひとつ、「ミカン狩り」の経験もある。
今回は、この経験をもとにして「ミカン」について書いていく。
前回、リンゴを「身近な果物」だったと書いたが、
ミカンはそれ以上に「身近な果物」だった。
リンゴを買ってくる場合、どんなに多くても3~4個のパックだったが、
ミカンの場合は、段ボール1箱であった。
段ボールのふたを開けると、中には数十個ものミカンが入っていた。
家族はめいめいにミカンをとり、好きなだけ食べた。
2個、3個と食べても、文句などでなかった。
ミカンはミカン科ミカン属の常緑低木だ。
9~12月にかけて、かなり大量の実をつける。
日本の一般的なミカンは、温州ミカンと呼ばれる、タネのない品種だ。
「温州」というのは、中国浙江省温州のことである。
柑橘類の名産地であったため、その名前にあやかって名付けられた。
温州から持ち込まれたとか、温州が原産な訳ではない。
原産地は日本の長崎県あたりである。
この温州ミカンだが、アメリカでは「テレビオレンジ」とも呼ばれている。
手軽に、手で皮を剥いて食べられるため、
「テレビを見ながら食べられる」ということでの、呼び方だ。
アメリカでも、身近な果物として愛されているのかもしれない。
さて、先にも書いたようにこの温州ミカンは、日本原産の植物だ。
今から400~500年ほど前に、突然変異を起こし発生したと推定されている。
そういう意味では、かなり新しい品種であるといえる。
日本に柑橘類が入ってきたのは、
11代天皇・垂仁天皇が崩御したころである。
「古事記」、「日本書紀」によれば、垂仁天皇の命を受けた田道間守が、
常世の国から持ち帰ったとされる。
伝説によれば、田道間守が持ち帰った「非時香菓(ときじくかぐのみ)」は、
現在でいう所の「橙」であるといわれる。
田道間守が苦労の末、日本へ「非時香菓」を持ち帰ったが、
すでにその時には、垂仁天皇は崩御していた。
田道間守は、間に合わなかったことを嘆き、悲嘆の末に死んでしまった。
後に田道間守は、お菓子の神様として祀られ、「菓祖」と呼ばれている。
この時に持ち帰った「橙」こそが、日本のお菓子の始まりとされているからだ。
兵庫県豊岡市の中嶋神社は、この田道間守を祀った神社である。
田道間守の持ち帰った「橙」だが、食用というよりは、
むしろ薬用としての利用が多かったようだ。
「橙」のみならず、後に中国から入ってきた「キンカン」や「コウジ」も
薬用として利用された。
もともと漢方の世界では、ミカンの皮を干して乾燥させたものを「陳皮」と呼び、
薬として使われていた。
現在では、七味唐辛子の中に、「陳皮」が入っている。
薬用から食用へと、ミカンと同じような歴史を辿ってきたようだ。
これが食用として、本格的に用いられるようになったのは、
15~16世紀のころだったといわれている。
このころ、流通していた品種はいわゆる「紀州ミカン」で、
これは明治時代に「温州ミカン」にとってかわられるまで、
ミカンの主品種となった。
紀伊国屋文左衛門が、紀州より運び財を成したのも、この紀州ミカンである。
粒が小さく、タネがある。
現代人には、ちょっと食べにくい品種だ。
ミカンの産地に赴けば、「ミカン狩り」も盛んに行なわれている。
「リンゴ狩り」の時と同じく、園内ではミカン食べ放題というシステムだ。
もちろん、持ち帰りの分は別途料金が必要になってくる。
当たり前のことだが、ミカンばかり食べると、そんなに量は食べられない。
まだ小学生のころ、ミカン狩りに出かけてミカンの食べ放題に挑んだが、
やはり10個も食べることができなかった。
どうしたって、同じものばかりでは飽きてくるし、
木になっているミカンには甘いものもあれば、酸っぱいものもある。
子供がそれをうまく判断できるはずもなく、
酸っぱいミカンばかりにあたっていた。
ひょっとしたら、この経験からミカンを食べなくなったのかもしれない。
自分が再びミカンを食べるようになったのは、結構、歳をとってからだった。
たしか、知り合いからミカンを貰ったのが、きっかけだった。
捨ててしまうのも、もったいないので、
それこそ十数年ぶりくらいにミカンを食べた。
久しぶりに食べたミカンは、甘さも充分、酸味も程よく、なかなかにウマかった。
確か4~5個ほど貰ったのだが、あっという間に食べ終わってしまった。
これ以降はミカンを毛嫌いすることもなく、おいしく頂いている。
さすがに一人暮らしの身なので、箱買いをしたりはしないが……。