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弁当から給食

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By: ajari

保育所、幼稚園、小学校、中学校など、
子供たちを集めて、保育ならびに教育を行なう施設の場合、
その稼働時間は、朝から夕方までの時間帯であることが多い。
そうなると、少なくとも昼食は食べさせなければならない。

自分の場合、幼稚園→小学校→中学校というふうに
進学してきたわけだが、
この中で、しっかりと給食が出たのは小学校だけであった。
幼稚園と中学校では給食は無く、
弁当を持って行っていた記憶がある。
(幼稚園の場合、午前中のみの場合も多かった気がするが……)

高校にも食堂はあったものの給食は無かったし、
大学の場合も食堂と喫茶店以外、
校内で飲食することは出来なかった。
高校の食堂は、お昼の間だけの営業だったが、
大学の食堂は、朝から夕方まで営業しており、
その気になれば、朝食と夕食もそこで食べることが出来た。
営業の形態を考えれば、高校の食堂は
あくまでも給食の延長のような気がするが、
大学の食堂は、全く普通の飲食店のそれに近かった。
また、補足しておくならば、
中学校では弁当を持参出来ない生徒のために、
昼時になると、業者がパン類を販売にやってきていた。
弁当の用意出来ない生徒、弁当だけでは足りない生徒は、
お昼時になると、これを買いに走っていた。
つまり、これを買い損ねてしまうと
お昼ご飯が無くなってしまうということである。
(そういうことにならないよう、
 業者の方も充分な量を持ってきていたようだが……)

先日、地元新聞のニュースサイトを見ていたら、
「給食センター着工へ、たつの市、来秋全中学へ配食予定」
という見出しがあった。
市内全域の中学校では、完全給食化を予定しており、
そのための「中央学校給食センター」の着工にとりかかる、
というニュースである。
この「中央学校給食センター」が建設されるのが、
たつの市揖西町小畑の「播磨龍野企業団地」だ。
現在、たつの市内の中学校のうち、
御津町と新宮町の中学校は、それぞれ給食センターから
各校に配食するセンター方式をとっているが、
旧龍野市と揖保川町の中学校では、
業者が配達する給食か、弁当かの選択制になっている。
この「中央学校給食センター」が完成した後は、
中学校は完全に給食に一本化され、
市内全ての中学校に、ここから配食されることになる。
教職員を含め、1日2500食分を配食するということなので、
1校あたり、おおよそ500食分を配食するということだ。
……。
この数を見れば、子供の数が減っていることを実感させられる。
自分が中学生のころ、1学級の生徒数が40人を超えていた。
そして1学年に8学級あったのである。
つまり、1学年平均320人、
学校全体では1000人の生徒がいたのである。
あまり単純に比較するのもなんだが、
数字だけ見れば、子供数は自分たちのころから比べて
半減していることになる。
今回は少子化について書いているわけではないので、
この話はここまでにしておくが。

この新しく作られる「中央学校給食センター」は、
食育の一環として、
調理行程を間近で見られる見学通路を設けたり、
給湯施設の一部に木質チップボイラーを採用し、
エネルギーの地産地消にも力を入れる他、
アレルギー対応室を設けて、食物アレルギーがある生徒のために、
除去食も提供出来るようになっているという。
なんというか、もう、至れり尽くせりである。
とくに、アレルギー対応食を給食として作ってくれるなど、
自分が小学生だったころには、あり得なかった話である。
(まあ、食物アレルギーを持っている子供も
 少なかったのだが……)
木質チップボイラーにしてみても、
エネルギーの地産地消といった視点は、
いかにも現代的といえる。
今の時代、そこまで考えておかなければ、
方々から色々言われるのかも知れない。

日本における「給食」の歴史は古い。
歴史の上で「給食」という言葉が初めて使われたのは、
古代日本の「大学寮」にまで遡る。
この「大学寮」は、律令制に基づき、
人材の育成を目的とした、公的な教育機関である。
生徒たちは、直曹と呼ばれる
学舎兼学生寮に住むことになっており、
ここで給付された食事を「給食」と呼んだのが、
日本の「給食」の事始めである。
つまり、一種の学校給食だったわけだ。
これ以外にも、平城京での宮廷人たちへの食事、
東大寺大仏殿建立の際の人夫たちへの食事、
鎌倉時代の僧院における食事、
江戸時代の小石川養生所で、
貧困患者に対して行なわれた食事などが、
日本の「給食」と、捉えることが出来るだろう。
組織的に行なわれた「給食」としては、
明治時代の紡績工場や軍隊などのものが最初である。

現在の形の「学校給食」が最初に行なわれたのは、
1889年、山形の私立忠愛小学校において、
無料で食事を配ったのが、最初であるとされる。
このときに配られた食事は、おにぎりと漬け物だった。
随分と貧相に感じられるかも知れないが、
当時の日本の世相からしてみれば、ごく平均的な食事である。
その後、各地で欠食児童などに対して、
パンなどが配られるようになっていった。
1930年代には「学校給食臨時施設法」が制定され、
一部の学校では「給食」が行なわれるようになったが、
1940年代に入ると、食料事情悪化による影響で中止された。

戦後、アメリカなど外国からの食料援助によって、
児童の欠食対策として、「給食」が再開され始めた。
このとき、アメリカ国内でタブついていた
小麦が日本へと持ち込まれ、「給食」に使われた。
日本の学校給食が「ご飯」ではなく「パン」主体なのは、
このときの影響である。
(同じように、お好み焼きやたこ焼きなど、
 いわゆる「粉もん」が、戦後、そのシェアを伸ばしたのも
 全く同じ理由によるものである)

今回発表された、市内中学校の完全給食化。
両親が共働きをしている家庭が増えてきていることを考えると、
これも時代の流れなのかなと思う。
平日の月曜から金曜まで、毎日弁当を作るというのは、
働いてる主婦からしたら結構な負担である。
これが無くなるとあれば、
結構、歓迎ムードな家庭も多いのではないだろうか?

話はちょっと変わるが、
かつて自分が揖保川町で1人暮らしをしていたとき、
結構離れたUCCの工場から、
コーヒーの香りが漂ってくることがあった。
たつの市の中心部を自転車などで走っていると、
離れた場所まで醤油の匂いが漂ってくることがある。
今回、「中央学校給食センター」が作られる場所は、
我が家から1㎞も離れていない場所である。

ひょっとしたら、毎日、昼前に美味しそうなニオイが
流れてくることになるのかも知れない。

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