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牛丼の歴史

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前回、ここ数十年の「牛丼」の価値の下落について書いた。
だが、実際の所、ここ数十年というのは
「牛丼」の歴史の中で見ても、ほんの一部に過ぎない。
今回は、前回書いた以前の「牛丼」の歴史について
書いていきたい。

「牛丼」の歴史を遡っていくと、
突き当たるのは「牛鍋」という鍋料理である。
これは、明治時代に誕生した牛肉を用いた鍋料理であり、
明治時代に起こった「文明開化」の、
代名詞ともいえる料理である。

以前に何度か書いたことがあるが、
日本人はその歴史の中で、獣肉を食べない時期が長かった。
その「肉食禁止期間」というのを見てみると、
その時期が仏教の伝来時期と、
ほぼ重なっていることに気がつく。
そう、日本の「獣肉禁止」の風潮は、
仏教によってもたらされたものである。
7世紀ごろには、政府から「肉食禁止令」が公布され、
日本人は獣肉を食べることが出来なくなった。
……あくまでも「表向きは」であるが。
実際には、「薬食い」などと称して、
獣肉を食べる習慣は残っており、
歴史の節々で
「獣肉食」についての情報を見ることが出来る。
この「肉食禁止令」が解禁されたのが、
明治維新以降のことである。
それまでも、こっそりとではあるものの
獣肉食は続いていたのだが、
基本的に人々は「獣肉食」に
一種の「禁忌」を感じており、
これを気にする人の中には、「獣肉」を口にすることなく、
一生を終える人も多かった。
それでは栄養が……と思う人もいるだろうが、
「獣肉」は禁止されていたものの
「魚肉」に関しては「禁止令」が及んでいなかったため、
動物性タンパク質を摂取することが出来ていた。
さらに日本人は、その食生活の中に
大量の大豆を取り入れており、
その大豆からもタンパク質や脂質を摂取することが出来た。

この「肉食禁止令」が解禁された時、
人々が獣肉を食べるための手段として生み出したのが、
「牛鍋」である。
このころの牛肉は、固い上に臭いも強かったので、
自然と、紅葉(鹿肉)鍋やぼたん(猪肉)鍋に
似た作りになっていた。
そのため「牛鍋」は、現在の「すき焼き」のような
醤油と砂糖仕立てではなく、味噌仕立てであった。
「牛丼」は、この「牛鍋」を
丼飯の上にかけることによって誕生した。

ここで疑問をもつ人もいるだろう。
「鍋」と「ご飯」といえば、通常、考えつくのは、
その締めに鍋の中にご飯を入れて炊いた、おじやである。
どうして「牛鍋」ではおじやを作らず、
「牛鍋」そのものを、
丼飯の上にぶっかけることになったのか?

これは「牛鍋」の汁の、その性質にあるようだ。
味噌を大量に使った「牛鍋」の汁は、
加熱を続けると煮詰まりやすい。
実際、仮名垣魯文によって書かれた
「万国航海 西洋道中膝栗毛」(1870年)の中では、
「牛鍋」の中の肉を食べつくし、残ったネギが、
味噌仕立ての汁と一緒に煮詰まってしまっている所に、
白湯をさしている場面が出てくる。
つまり、「牛鍋」を食べ終わった状態では、
すでに鍋の中は、かなり煮詰まった状態になっており、
ご飯を入れて煮込める状況ではなかったのだろう。
「鍋」を食べ終わった後に、
ご飯を入れて煮込んだ「おじや」で
締めにすることが出来ないため、
「鍋」と一緒に「ご飯」を食べるしかなかったのだ。
その中で、ご飯の上に「鍋」の肉をのせる発想が
生まれたのではないだろうか?

これがいつごろから、ひとつの料理として
店で供されるようになったかは、はっきりとしない。
ただ、1890年の新聞には「牛飯」という言葉が出てくる。
1年のうちに、10件ほど出てきており、
その内容は「牛飯を警官が食い逃げした」とか、
「牛飯屋に強盗がはいった」というもので、
なんとも庶民的なニュースばかりである。
どうも「牛丼」は、作り出された当初から
庶民的な話題に事欠かなかったようだ。
この「牛飯」は価格も安く、
当時、カレーライスが1杯5〜7銭だったが、
「牛飯」は1杯、1銭であった。
カレーの場合、輸入物のカレー粉など、
高価な材料を使わなければならなかったため、
必然的に価格も高額になったのだと思われる。
この「牛飯」、作り出されたのは東京で、
京阪には存在していなかった。
これは蕎麦や寿司のように、
さっと食べられるものを「粋」として好む、
江戸人の性格が関係していたのかもしれない。

この約10年後、
1899年に現在の牛丼チェーンのひとつである
「吉野家」が誕生している。
東京の日本橋での開店であったが、
創業者の松田栄吉は大阪出身で、
彼の出身地、大阪吉野町から、その屋号はつけられている。
東京で作り出された「牛丼」(この名前を付けたのも
吉野家だとされている)を売り物にした店の屋号が、
大阪の地名からとられているというのは、
なんとも皮肉なことである。

さて、龍野市に住んでいた自分が、
初めて牛丼を食べたのは、
相当、後になってからのことだ。
これは龍野市に牛丼屋がなかったためだ。
姫路までいけば、牛丼チェーンもあったのだが、
そこまでわざわざ「牛丼」を食べに行くのも、
面倒だったのである。
大学時代、近くに牛丼のチェーン店もあったのだが、
それまで全く牛丼を食べる習慣がなかったため、
ついに4年間、店に足を踏み入れることが無かった。
当時の大学生としては、珍しかったかもしれない。

現在でこそ、たつの市には牛丼チェーンの
「御三家」が揃っているが、
市内に最初の牛丼屋が出来たのは、
今から10年ほど前の話だ。
ブラック企業として騒がれた、あの牛丼チェーンである。
開店早々、いそいそと食べに行ったのだが、
あろうことか、メニューの中に
「牛丼」の文字が無かった。
そう、時代は狂牛病問題のまっただ中。
すでにアメリカ産牛肉の輸入が禁止され、
各牛丼チェーンで、「牛丼」の販売を停止している中での、
開店であった。
とんでもない逆境の中での、開店だったと思うが、
その後の様々な問題にもへこたれず、
現在でも無事に営業を続けている。

ここだけの話であるが、
正直、「牛丼」よりも、
その代用品として用意されていた「豚丼」の方が、
ウマかったと思っている。
そのため、「牛丼」が復活し、
「豚丼」が姿を消してしまうと、
自分の足も、必然的に牛丼屋から遠のいてしまった。

やはり、なんとも皮肉なことである。

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