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歴史

役小角が日本にもたらしたものとは?

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日本独特の宗教(?)に、「修験道」というものがある。

修験者や山伏がやっている「アレ」である。
天狗のような格好をして、山の中を駆け巡って修行する。
ホラ貝を取り出して、ブオ~ッと鳴らす。
裸足で焚き火の上を歩いて、火傷しない。
大方、この辺りが、修験道のイメージではないだろうか?

そもそもあれは、神道なのか、仏教なのか?
やっていることには、
どことなく仏教ぽいところがあるのだが、
普通の仏教と比べると、あまりに異質である。
かといって、神道のようにも見えない。
あれは一体なんなのか?

実は「修験道」というのは、一種の神仏習合である。
日本古来の神道と、外国から入ってきた仏教が、
ひとつに結びついたものなのだ。
もっとも神道といっても、
明確にどこかの神社みたいなものではなく、
山を神聖視する一種の自然崇拝だ。
あえて分類するならば、神道ということになる。
神道の懐の広さが、山岳信仰を自然に取り込んだ形だ。
そしてこの山岳信仰と、仏教の入り混じったものが
「修験道」なのである。
この「修験道」は、
役小角によってひらかれたとされている。

役小角。
「えんのおづぬ」と呼ぶ。
役行者とも呼ばれ、様々な伝説が残っている。
今回は、この役小角について書いていく。

役小角が生まれたのは、
舒明天皇6年(634年)のことといわれている。
日本の歴史区分でいえば、飛鳥時代のことだ。
大和平野の西、生駒山脈の麓の茅原という場所で生まれた。
現在の奈良県御所市の東南辺りである。
宗教系の偉人の生誕には、
如何にも、といった伝説が付随するものだが、
役小角の場合も、その例に漏れない。
彼が生まれる前、母親の白専女が
「金剛杵」が口の中に入る夢を見て、彼を妊娠した。
「金剛杵」とは、元々はインドの武器で、
真ん中を握り、両端が小さな剣になっているものである。
このころには、仏具のひとつになっていた。
ともあれ、そのまま母の胎内ですくすくと育った小角は、
いよいよ出産の時を迎えた。
辺りには花のような香気が漂い、
天からは童子たちが下りてきて、白専女を見守っていた。
さらに彼女のお腹が光を放ち、
美しい音楽も流れてきたという。
このような、めでたいことの前に起きる、
不思議な現象を「奇瑞」というが、
まさに、これでもかというほどに「奇瑞」が起こった。
「奇瑞」の大盤振る舞いだ。
溢れるような「奇瑞」の中、ついに小角が生まれる。

不思議なことに、ひと枝の花を握りしめたまま、
生まれてきたという。
さらに奇跡は続く。
生まれたての小角の前に、徳善大王があらわれ、
彼の頭の頂に水を注いだという。
現実にそんな真似をすれば、児童虐待でブタ箱行きだが、
神様っぽいのが現れて、同じことをすれば、
非常にめでたいことになる。

恐らくこの辺りの話は、
後に修験者たちが、仏陀などの生誕伝説をもとにして
創作したものだろうが、いささかやり過ぎの感がある。
小角や白専女がこれを聞けば、唖然とするだろう。

生まれた時からこの調子なので、その後の人生についても
役小角の人生には不思議な話がついてまわる。
それを全て取り上げていたら、
時間がいくらあっても足りないので、
大まかに彼の行跡を見ていこう。

まず、10代の中ごろになると、彼は山に登るようになる。
このころ、小角が登っていたのは、彼の生家に近い
葛城山や金剛山だったらしいが、
次第に距離のある生駒山などにも登るようにもなった。
また元興寺の慧灌僧上から「孔雀の呪法」を教わった。
これは「孔雀明王経」と呼ばれているもので、
彼の後の伝説の中にも、度々出てくることになる。

古代インドでは、毒蛇に噛まれて死ぬ人が多く、
毒蛇は非常に恐れられていた。
しかし孔雀は美しい姿をしていながら、
平気で毒蛇を食べるので、人々に敬われていた。
やがてヒンズー教の教えの影響で、
孔雀は女性神格化され、仏母孔雀明王となった。
この孔雀を讃え、災難を逃れ、また雨乞いにも験がある
呪文が「孔雀明王経」となのである。

さらに小角の行動範囲は広がっていき、
箕面や吉野方面にまで広がっていく。
そしてやがて、当時は根の国(死の国)と呼ばれていた、
熊野へと足を踏み入れることになる。
伝説によれば、様々な困難を乗り越え、
小角は熊野権現に参拝した。
このころには役小角の名前は、知れ渡るようになり、
彼に救いを求める人や、彼の弟子になりたいという人が
集まるようになっていく。
と同時に、朝廷も彼を危険視するようになっていく。

そんな中、小角は大峰山に霊感を感じ、
そこを開き、道場を作りたいと考えた。
彼は再び、困難を乗り越え大峰山に赴き、
ここで修行を始める。
山頂の岩の上に座り、一心に「孔雀明王経」と
「不動明王経」を唱えると、やがて弁財天女が現れた。
人々を救い、悪人を懲らしめるには優しすぎると、
小角が思うと、それを察して
弁財天女は天河へと下りていった。
次に現れたのが、地蔵菩薩だ。
しかしこれも厳しさが足りないと小角が思えば、
それを察して、阿古谷へと下りていった。
何と呼び出した神様を、2回もチェンジしたのである。
そしてその後に現れたのが、蔵王権現だった。
小角はこの蔵王権現を祀り、蔵王堂を立てた。
これが、現在の金峰山寺蔵王堂の始まりとなった。
この金峰山寺が、修験道の本山である。

この後、役小角は罪に落とされ、伊豆へと流される。
後に大赦によって許され、生まれ故郷の茅原に戻る。
その後は、箕面の天上ヶ岳で亡くなったとも、
唐の国へ渡っていったともいわれている。

彼が作り出した、「神仏習合」という考え方は、
以降、この国の宗教観の根幹になった。
明治になり神仏分離令が発されるまでは、
日本は神も仏も一体になった国だった。
現在でも、大方の日本人は宗教について恐ろしく寛容だ。
クリスマスやバレンタインデーを楽しみ、
除夜の鐘をつき、初詣に神社に行く。
子供が生まれれば神社へお参りし、
人が亡くなれば、お寺で葬式をあげる。
この世界に類を見ない、宗教的寛容さを作り出したのが、
他ならぬ、役小角だったといえる。

世界には、宗教に端を発する争いや戦争が溢れている。
日本人はこれを「バカなこと」のひとことで
片付けることが出来る、希有な民族である。
これは、かつて役小角が作り出した「モノ」が、
日本にしっかりと根付いている証拠だ。

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