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味噌〜その2

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前回、うちの庭で採れる大葉を使った「大葉味噌」を作るために、
それに適した「味噌」がどのようなものなのかを、
様々な「味噌」の種類を挙げながら考えた。
その結果、今回の「大葉味噌」作りは、大豆100%で作られた
「豆味噌」を使って行なうことにした。
「八丁味噌」のブランドで知られる、あの「味噌」である。

今回は、この「大葉味噌」作りの続きと、
「味噌」というものの歴史について書いていく。

「味噌」という調味料の歴史を遡っていくと、
古代中国の「醤(しょう)」という調味料に行き当たる。
この「醤」というのは、獣肉や魚肉を材料とした発酵調味料で、
使われる材料や、その製造方法の違いなどによって、
様々な種類の「醤」が作り分けられていた。
紀元前の周王朝の時代には、すでに100種類以上の「醤」があったという。
ただ、このころの「醤」の原材料は、そのほとんどが動物性のもので、
「肉醤(ししびしお)」と呼ばれるものがメインであった。
なぜ、現在の様な大豆を材料にした「醤」が作られなかったのだろうか?

実は、その理由は非常にシンプルで、そもそもの話、
古代中国には、大豆そのものが存在していなかったのである。
中国に大豆が持ち込まれたのは、前漢の武帝の時代のことだといわれている。
武帝は積極的な対外政策をとっており、
即位直後から部下を西域(中央アジア)へと派遣した。
この西域へと派遣された部下は、西域の文化・情報を
中国に持ち帰ることになるのだが、そのとき持ち帰ったものの中に
大豆が含まれていた。
このとき持ち帰られた大豆は、その後、中国国内で広まり、
後の北魏の時代に記された「齊民要術」には、
大豆を使った「醤」の作り方も記録されている。
(「齊民要術」には、同じく大豆を用いた「豉」という食品(調味料)
 についても書かれており、どちらかといえばこちらの方が
 現在、日本でいう所の「味噌」に近いものだったらしい)

やがて時代が下り、日本に大和政権が誕生する。
このころになると、日本から中国に向けて
遣隋使や遣唐使が派遣されるようになり、
彼らの手によって、大陸の進んだ文化が日本に持ち帰られた。
その持ち帰られた文化の中に「醤」も含まれていた。
日本の文献で、一番最初に「醤」について書かれているのは、
養老2年(718年)に成立した「養老律令」の中でのことである。
政府の食料管理機関に「醤院」という部署があり、
ここが天皇の食事作りや、官使に給与として与えられる
食材の管理をしていたようだ。
貨幣経済が充分に発展していなかった時代の食料管理機関は、
今日のそれとは、大いに性格が違っていたであろうことは、
容易に想像できる。
恐らくは、単純な食料管理だけではなく、現代日本でいう所の
財務省に近い性格も持ち合わせていたのではないだろうか?
その組織の名前に「醤」の字が使われているのだから、
それがいかに重要な意味をもっていたかが分かる。
ただ、実際の所、この時代の「醤」は、古代中国のそれと同様に
獣肉・魚肉を発酵させた調味料(?)であったらしい。
そして、このころ「醤院」が扱っていた食品の中には
先に述べた「豉」もあった。
さらに、この「醤院」が扱っていたものの中には「未醤」なるものがあり、
これは中国からではなく、高麗(当時の朝鮮)からもたらされたもので、
現代の醤油と味噌の中間、「もろみ」のようなものだったようだ。

実は「味噌」のルーツには、もう1つ、別ルートがある。
大和政権が出来上がるはるか以前、縄文時代のころのことだ。
この時代、人々は狩猟や漁業によって日々の食料を得ていたのだが、
それらの保存方法として、かなり初期の段階から「塩漬け」という
方法が用いられていた。
幸い日本は四方を海に囲まれていたため、
「塩」を手に入れるのが容易だったのである。
獣肉や魚肉を塩漬け保存していると、
当然、そこに発酵が起きる余地が生まれ、実際にそれは生まれた。
つまり遠く中国で起こった「醤」の発明と同じことが、
海を隔てた日本でも起こっていたのである。
こうして作られた日本独自の発酵調味料を、
当時の人々は「比之保(ひしお)」と呼んでいた。

つまり、ちょうど奈良時代が始まろうかという700年ごろ、
日本には「醤」「豉」「未醤」「比之保」と、4つの発酵調味料が
存在していたことになる。
やがてこれら4つの発酵調味料は、時代を経て「醤油」と「味噌」へと
変わっていくことになるのだが、その際、
獣肉や魚肉を用いた発酵調味料がほとんど無くなり、
大豆を用いた「醤油」と「味噌」が、
支配的なまでにシェアを伸ばしていくのは、
やはり仏教の広がりによる「肉食禁止」の流れのせいだろう。

こうした混沌とした状態の中、平安時代になり、
ついに「味噌」が誕生する。
延喜元年(901年)に成立した歴史書「日本三大実録」の中、
中国から来日した僧侶に提供する物資リストの中に
「味噌」の文字が登場するのである。
同じリストの中に「醤」の名前も見られることから、
このころには、まだ「醤油」というカテゴリーはなかったのだろう。
混沌とした数々の発酵調味料の中から一足早く、
「味噌」は抜きん出ることになったのである。

さて、ここで話を一旦、「大葉味噌」の方に移そう。

自分が買って来た「豆味噌」を試しに嘗めてみると、
その味わいは存外にまろやかで、昔、親戚から貰った同じ「豆味噌」である
「八丁味噌」と比べてみても、明らかに穏やかな味わいであった。
不思議に思って、パッケージ裏の原材料表示を見てみれば、
原材料の中に、大豆、塩の他、砂糖や、
アミノ酸等の旨味調味料が入っていた。
なるほど、これらの材料のせいで「豆味噌」本来の尖った部分が
抑えられているらしい。
昔、親戚に貰った「八丁味噌」は、有名なメーカーの本格的な商品で、
今回、自分が買って来た「豆味噌」は、明らかに日常使いの廉価品である。
恐らくは、なるべく多くの人の口に合うように、
糖類などを加えて、その味わいを穏やかにしているのだろう。
自分がやろうとしたことを、先にメーカー側がやっていたわけだ。

今回は、原初の様々な発酵調味料から「味噌」が生まれるまで、
そして、自分が「大葉味噌」作製用に買って来た「豆味噌」が、
意外に穏やかな味わいだった理由について、書いてみた。
次回は、その後の「味噌」の歴史、
そして自家製「大葉味噌」作製の続きを書いていく。

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