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餅〜その2

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日本という国にとって、コメというのは
もっとも重要な農産物である。

これは何も今に始まったことではなく、
日本の歴史を振り返ってみれば、その始まりのころから
コメは最重要の農作物であった。
何故?日本において、コメは最重要な農作物となったのか?

理由は単純で、コメの生産性が高かったからである。
日本ではコメと一緒に麦も生産されていたが、
コメが1粒の種籾から、200粒のコメが収穫できるのに対し、
麦の場合、1粒から20粒しか収穫がない。
また、麦が連作できないのに対し、
コメは連作が出来る上に、二期作も可能である。
つまり1年間のうちに、2回コメを育てることも出来るのである。
(具体的には、麦も連作は可能であるが、
 連作すればするほどに収穫量は減少していくのである)
これだけの条件の違いがあって、コメを作らない理由がない。
事実、世界を見回してみても、
難なくコメが作れる地域では、皆、コメを作っているのである。
特に日本の場合、多湿で水が豊富であったため、
水田を作り、そこでコメを生産することが出来た。
平地の少ない日本では、その少ない平地から
少しでも多くの収穫を挙げるべく、
生産性の高いコメを選択する必要があり、
幸いにして日本は、コメを生産するのに
適した気候条件を有していたのである。

日本にコメが伝えられたのは、縄文時代の後期とされる。
かつては、弥生時代とともに稲作が始まったと考えられていたが、
後の研究により、縄文時代の後期にはすでに、
稲作が始まっていたことが明らかになった。

もっとも、コメを生産していたからといって、
当時の日本国民の全てが、コメを主食としていたわけではない。
コメを常食できていたのは、あくまでも身分の高い人間に限られ、
一般庶民の間では、滅多にコメを口にする機会もなく、
口に出来たとしても、それは祝事など、
「ハレ」の日に限ってのことであったらしい。

ちなみに日本で作られているコメには2種類ある。
「餅米(もちごめ)」と「粳米(うるちまい)」である。
わかりやすくいえば、我々が普段
「ごはん」として食べているのは「粳米」であり、
「餅米」の方は、現在でも「餅」の原材料として
使われることが多い。
この「餅米」と「粳米」というのは、
コメが日本に持ち込まれたころから存在しており、
当初、「餅米」は蒸して「強飯(こわいい)」にしたり、
これを搗いて「餅」に加工したりしていたらしいが、
「粳米」の方は、現在のような
「ごはん」に調理されることはなく、
もっぱら「粥」として食されていたようである。
「粳米」が現在のような「ごはん」の形になるのは、
はるか後代、平安時代になってからのことである。
つまり、平安時代以前のコメの食べ方としては、
「強飯」「餅」「粥」の3種類であったことになる。

さて、問題の「餅」である。
「強飯」を、さらに搗くことによって作られる「餅」であるが、
実はこの「餅」の原料は、コメばかりとは限らない。
……。
ここまで書いてきた話を、根底から覆してしまいそうな話だが、
そもそも「餅(もち)」「粳(うるち)」という分類は、
何もコメだけに限られたものではない。
結構な種類の穀物は、「餅」と「粳」に分類することが出来る。
例えば、「餅」種の大麦であれば「もち麦」となるし、
「餅」種の黍であれば「もち黍」、
粟であれば「もち粟」となる。
本来、黍団子はこの「もち黍」で作られているものだし、
粟餅なども、この「もち粟」を使って作られる。
「もち麦」は、ご飯のようにして食べたり、
「もち麦麺」として、麺に加工されることもある。
この「餅」と「粳」というのは、何が違っているのか?

実は「餅」種と「粳」種では、
含まれているデンプンの質が違っている。
「粳」種のデンプンが、アミロースとアミロペクチンで
構成されているのに対し、
「餅」種のデンプンは、ほとんどがアミロペクチンである。
直線的な構造になっているアミロースに対して、
アミロペクチンの構造は網目状になって、絡み合っているため、
炊飯時には粘性が強くなるのである。
「粳」種のコメであっても、アミロペクチン含有量が多く、
粘性のあるコメは、美味しいコメとされることが多く、
「餅」種のコメの場合、この強い粘性によって、
粒状態から餅状態への加工が可能になるのである。
コメのみならず、大麦にしても、黍や粟にしても、
「粳」種よりは「餅」種の方が、
価値が高いものとして扱われる。
(というよりは、黍や粟の場合、食用とされるのは
 ほとんどが「餅」種で、
 「粳」種は飼料などに使われることが多い)

つまり、古代、コメの価値が高かった時代においても、
「餅」種のコメは、その中でも特に価値のあるものであり、
その「餅米」を加工して作られる「餅」は、
コメの加工品としては、最高級のものであったわけである。
これは古来から、餅が神様への捧げものとして用いられたり、
正月や祝事の、いわゆるハレの日の食べ物と
されてきたことからも明らかである。
奈良時代に編纂された「豊後国風土記」に、
このような記述がある。

豊後国、玖珠速水(くすはやみ)の郷に住んでいた人達が
水田を作り、稲作を行なっていた。
彼らは余ったコメで大きな餅を作り、
この餅を的にして矢で射ると、
餅は白い鳥に変わり飛んで行ってしまった。
その後、家は衰え、水田は荒れ果ててしまったという。

いささか教訓じみた昔話であるのだが、
この記述から、ある事実が明らかになる。
「余ったコメ」で餅を作った、とあることから考えると、
少なくともその当時(奈良時代)、栽培されていたのは
粳米ではなく、餅米が大半を占めていたのではないか?
ということである。
現在でこそ、コメの栽培は粳米が主流となり、
餅米はコメの全生産量の3〜5%程度の生産量でしかないが、
かつては、この数字が逆だったのではあるまいか?
現在でも、ラオスなどではコメの生産量の85%を
餅米が占めているということだが、
かつての日本も、これに近かったものだと思われる。
だとすれば、そこまで主流として生産されていた餅米が、
どうして粳米に取って代わられたのか?という疑問が生まれる。
実は餅米はいもち病にかかりやすく、
刈り取りが遅れると「胴割れ」になってしまったり、
雨の多い年は、イネを刈り取る前に「穂」から発芽する
「穂発芽」が起こったりもする、
非常に育てにくいコメなのである。
それでも、「粥」でしか食べられない粳米よりも
味の点で、遥かに勝っていたために、
コメ栽培の主流であったのだが、
平安時代に、粳米を「ごはん」に炊き上げる技術が完成したため、
それ以降、コメ栽培の主流は
粳米に移っていったものと考えられる。

こうして、栽培の主流は
「餅」種から「粳」種へと移っていったが、
それにも関わらず、餅米は滅んでしまう事なく、
今だに作られ続けている。
これはやはり、「粳」種では作ることの出来ない
「餅」というものを、日本人が捨てられなかったためであろう。

正月を始めとした、祝事の際に欠かせない「餅」。
餅米は、粳米にそのシェアをほとんど奪われつつも、
その性格故に、現在まで生き残ることができた。
そして現在、餅は祝事のみならず、ごく普通の食材として
日常の中で用いられるようになっている。

「小麦」の台頭によって、
「コメ」自体のシェアが減ってきている今、
「コメ」反撃の鍵は、存外、「餅」が握っているのかも知れない。

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