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少し前のニュースで、こんなものがあった。

「700キロ大凧、垂直落下、逃げる間もなく、響く悲鳴」

5月31日、滋賀県東近江市で行なわれていた「大凧まつり」で、
100畳の大凧が、風にあおられて落下、
観客の上に落ちたために、4人が重軽傷を負った。
この大凧は、縦13m、横12m、重量700キロで、
高さ200m付近から落下した。
この東近江市の「大凧まつり」は、
江戸時代中期から始まった歴史ある大会で、
1882年には220畳の大凧が揚げられたという記録もある。
今回、落下した凧の重さから考えると、
その年の大凧は1.5tほどの重量があったことになる。

日本では「凧揚げ」といえば、
お正月の遊びというイメージが強いので、
どうしてこの時期に「大凧まつり」?
という気もしないではないが、
端午の節句に、子供の成長を願って
凧を揚げるという地域もあるので、
東近江市の大会も、そういうきっかけで始まったのかも知れない。
いずれにしても、700キロもある巨大な凧が落下してくれば、
下にいる観客としては、生きた心地もしないだろう。

自分が小学生のころ、
冬休みの宿題に「凧作り」というのがあった。
冬休みの間に、各自1つ凧を製作し、
これを使って、休み明けに凧揚げ大会が行われた。
これがなかなか厄介な宿題で、
手先が不器用だった自分には、この宿題はかなりの鬼門だった。
もっとも、そういう生徒は多かったようで、
皆が持って来ている「凧」を眺めてみると、
その大半が、親が作ったんだろうなと思えるものであった。
どういうわけか、「ゲイラカイト」は禁止というルールがあり、
このもっとも飛ばしやすい凧は、作ることが出来なかった。
その代わりに流行っていたのが、
2つの棒の間にビニールを張った簡単な凧で、
これは簡単な作りのわりには良く飛ぶので、
かなりの生徒が、この凧を作って持って来ていた。
正式な名前を知らなかったのだが、
今回、調べてみた所によると「ぐにゃぐにゃ凧」というらしい。
確かにその通りなのだが、なんともヒドい名前だ。
さすがに宿題として、それを持って行っても
「こいつ、手抜きをしたな」と思われるので、
飛行機凧や、六角凧、角凧などを作っていたのだが、
実際には肝心な所は、ほとんど親が作っていた。
お正月のいい暇つぶしだったようである。

日本の凧のルーツは、中国だといわれている。
しかし、凧そのものは、はるか古代より
世界中で作られていたらしく、
紀元前400〜300年ごろには、すでに存在していたようだ。
中国では、占い、宗教、戦争など、様々な分野において
凧が活用されてきた。
北宋時代(960〜1127年)には、
頻繁に盗賊による被害を受けていた地域で、
占いの支持に従い、全住民が凧揚げをした所、
他の地域は盗賊に襲われたが、
その地域は被害を免れたという話も残っている。
凧揚げと、防犯にどのような繋がりがあるのかは知らないが、
ひょっとすると盗賊の方で、あれは何かある筈だと、
勝手に思い込んだのかも知れない。
諸葛亮の「空城の計」のようなものである。

日本では、平安時代に書かれた「和名抄」に、
凧に関する記述があるので、
このころにはすでに持ち込まれていたようである。
とはいっても、一般に凧が普及するのは
江戸時代に入ってからのことで、
それまでは、貴族や武士の間でのみ行なわれていた、
高級な遊びであった。
恐らくだが、江戸時代に入り、
安価な木綿が大量生産されるようになるまでは、
凧に使えそうな糸といえば、麻か絹しかなく、
どちらにしても貴重な被服用の繊維だったため、
それを遊びに使えたのは、
かなり裕福な階層の人間だけだったのではないだろうか?
かくして凧は、高貴な人々の優雅な「遊び」として定着し、
中国のように占いや宗教、戦争に使われることはなかった。
江戸時代に入ると、一般庶民にも凧で遊ぶ風習が伝わった。
先に書いた通り、木綿の大量生産によって、
安価な木綿の凧糸が作られるようになったためだろう。
これで遊ぶ人が増え出すと、
同時に凧自体も工夫されるようになり、
変わった形をした凧や、金銀をちりばめた豪華な凧なども
作られるようになった。
今回、東近江市で事故を起こしたような「大凧」が
作られるようになったのも、江戸時代のことである。
やはり何度も墜落事故を起こしていたらしく、
建物の屋根や、農作物などに被害が出ることもあった。
そのため幕府は、幾度となく禁止令を発している。
何度も禁止令を出している所をみると、
禁止令を無視して、凧を揚げる人間が多かったのだろう。
江戸時代の「凧」人気が伺える。

明治時代になり、電柱や電線が増えるに従って、
次第に凧揚げは行なわれなくなっていく。
自分が子供のころも、
「凧揚げは電柱や電線のない、広い場所でやりましょう」
なんていうCMを、TVでやっていたものだが、
どうもそれは、明治時代からのことであったらしい。
もっとも電線の多い市中での凧揚げは減っていったが、
電線の少ない郊外などでは、
正月や節句の子供の遊びとして生き延び、
自分の子供時代へと、繋がっていくのである。

さて、現在でこそ「タコ」、「タコ」、と呼ばれているが、
これは関東地方の呼び方であり、
関西地方では「イカ」であった。
は?何いってんの?と突っ込まれそうだが、事実である。
それぞれ「タコノボリ」「イカノボリ」と呼ばれており、
「ノボリ」というのは「登り」で、
空に登っていくという意味だろう。
禁止令も「タコノボリ禁止令」「イカノボリ禁止令」の
名前で発令されている。
現在でこそ「凧」という漢字をあてているが、
本来の意味では「蛸」であったのだ。
紙の尾を垂らして、空に登る姿が
「蛸」なり「烏賊」なりに見えたからであろう。
だが、そう考えれば、多くの凧は2本の尾を垂らしている。
これは10本の足のうち、2本だけ特に足の長い
烏賊の特徴に似ている。
そうなると、こう考えることも出来る。
かつて「凧」は、長い尾を2本つけていることから、
「烏賊」と呼ばれていた。
これが関東に伝わり、江戸時代に上方への対抗意識から
「蛸」と呼ぶようになった。
江戸で大きく発展した凧は、
そのまま参勤交代の武士たちによって、
日本各地へと広められ、
それと同時に「蛸」の名前も広がっていった。
やがて、もともと存在していた「烏賊」の呼び方はなくなり、
全国的に「蛸」として、認識されることになった。
それでも関西では、明治時代ごろまでは
「烏賊」と呼んでいたようである。
これは逆に江戸への対抗意識から、
「蛸」呼びを拒否していたのかも知れない。

近年では、お正月といえども
凧を揚げている子供は少なくなった。
と、いうよりは、自分の子供時代でさえ、
お正月の遊びといえば、凧揚げではなく、
ファミコンやマンガであった。

小学生時代の、凧を作るという宿題は、
そういう風潮に少しでも抵抗しようとする、
(当時の)大人たちの悪あがきだったのかも知れない。

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