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歴史

謀反

更新日:

日本で「謀反」といえば、「本能寺の変」ということになる。

インターネットで「謀反」というキーワードで検索をかけると、
出てくる結果の中に「本能寺の変」の文字が、
ちらほらと目につく。
それだけ、「謀反」=「本能寺の変」という図式は、
日本人の意識の下に刷り込まれているのだろう。
もちろん、日本の歴史を振り返ってみれば、
「謀反」というのは、わりとよく起こっている。

もっとも有名なものは、
やはり「本能寺の変」だろうが、これ以外にも、
関ヶ原の戦いにおける小早川秀秋の裏切りも、
「謀反」といえなくもないし、
後醍醐天皇の建武の新政に反抗した、
足利尊氏の挙兵も「謀反」といっていい。
江戸時代、由井正雪が起こした「慶安の役」も、
「謀反」といえるし、
天草四郎が起こした「島原の乱」も、
「謀反」の1つの形だろう。
明治時代に起こった「西南戦争」なども、
「謀反」といっていい事件である。
さらに戦国時代ともなると、臣下が主君を殺し、
主家を乗っ取ってしまう「下克上」の例は、
それこそ枚挙に暇がないほどに頻発しており、
この「下克上」のほとんどが、「謀反」ということになるだろう。

歴史の上の話だけではなく、
現在でも「謀反」という言葉は使われる。
政治の世界では、政党内部の分裂や造反について、
「謀反」という表現をすることがあるし、
経済の世界では、会社内の権力闘争の際に、
「謀反」という言葉が使われることがある。
かくも日本は、「謀反」の大好きな(?)国なのである。

改めて「謀反」という言葉を、国語辞典でひいてみると、

謀反……君主に背いて兵を挙げること
    反逆

と、ある。
現在では「謀反」・「謀叛」と書いて
「むほん」と呼ぶのが普通であるが、
もともとは「謀反」は「ぼうへん」、
「謀叛」が「むほん」と呼ばれていた。
その2つ、どこか違うの?と思ってしまうが、
本来的な意味では、
「謀反」は、国家(政権)の転覆や、
天皇の殺害を企てることであり、
「謀叛」は、外国と通謀して国家に害をなしたり、
外国に亡命したりすることも、これに含まれた。
しかし、外国と陸続きでない日本においては、
「謀叛」を行なうことは難しく、
平安時代ごろには「謀反」と「謀叛」は1つにまとめられ、
「謀反」と書いて「むほん」と呼び、
意味も、現在のように
「武力を使った君主への反逆」を意味するようになった。

先にも書いたように、「謀反」といえば、
明智光秀が織田信長を襲って殺した、「本能寺の変」が有名だが、
実は、自分の住んでいる播磨地方にも有名な謀反人がいる。
それが、赤松満祐である。

え?誰?それ?と、聞き返されてしまうことも多いのだが、
彼は室町時代に播磨、美作、備前の3ヶ国を支配していた
守護大名の1人である。
足利尊氏に協力して、室町幕府を開く立役者となった
初代・赤松則村(円心)の孫の孫である。
つまり玄孫(やしゃご)ということになる。
室町幕府・3代将軍義満の時代から仕えはじめ、
以後、4代将軍義持、5代将軍義量、6代将軍義教と仕えていた。
播磨、美作、備前という、当時としては大国であった
3ヶ国を支配していたことから、
その力を将軍から危険視されていたらしい。
ちょうど5代将軍義量のとき、
前将軍義持によって、所領の一部である播磨を、
同じ赤松一族で義持の側近である赤松持貞に
与えようという動きがあった。
これを聞いた満祐は怒り、
京都の自宅を焼き払って領国・播磨に帰り、合戦の準備を始めた。
義持はこれを追討するように命令を出すが、
この命令を受けた一色義貫がこれを拒否。
さらに翌年、赤松持貞と義持の側室の間の不義が明らかになり、
持貞が切腹させられると、事態は有耶無耶になり、
諸大名の取りなしもあって、満祐は赦免された。
……。
これが「謀反」?
ちょっと対立しただけじゃない、と思ってしまう。
もちろん、これも1つの「謀反」ではあるが、
自分のいう赤松満祐の「謀反」というのは、これのことではない。
だが義持との一件は、実際に武力衝突こそ起きなかったものの、
納得のできないことをされれば、相手が将軍であろうとも
一歩も引かないという満祐の性格を如実に表している。
事件は6代将軍義教の時代に起こった。

義教が将軍の座についた当初、義教と満祐の関係は良好であった。
だが、次第に義教はその性格を変貌させていき、
有力大名を誅殺しはじめる。
何故、そんなことになってしまったのか?
原因は義教の将軍就任の過程にあった。
5代将軍義量が早世し、その後は前将軍であった
義持が実権を握っていたのだが、
彼は亡くなる前に後継者を指名していなかった。
そのため、義持が亡くなった後、
出家していた義持の弟4人の中から「くじ引き」によって、
6代将軍が選ばれた。
それが義教である。
前代の支配者によって指名されたわけではなく、
臣下にその実力を見込まれて推されたわけでもない。
ただただ、「くじ運の良さ」のみで将軍の座についた彼を、
周りの人々は「くじ引き将軍」として、バカにした。
この周りからの嘲りが、義教の性格を歪ませた。
彼は必要以上に将軍の権威にこだわるようになり、
何としてでも周りの人間を畏怖させたいと考えるようになった。
その結果、彼が始めたのが有力大名の誅殺であった。
自分に逆らうものを殺し、各大名の相続に口を出しその力を削る。
まさに「恐怖政治」そのものである。
「くじ引き将軍」と呼ばれ、鬱屈した彼は、
そのコンプレックスにより恐怖の独裁者になってしまったのだ。
そして、その矛先は赤松満祐にも向けられた。

義教は、赤松一族の庶流である赤松貞村を寵愛しており、
満祐から播磨、美作の所領を没収し、
これを貞村に与えようとしているという噂が流れはじめる。
さらに義教が満祐を誅殺しようとしているという風説が
囁かれるようになり、満祐は疑心暗鬼に囚われてしまう。
なんといっても、義持の時代に同じようなマネを
実際にやられてしまっているのである。
それで疑うなというほうが、無理というものだろう。
狂乱に近い疑心暗鬼に囚われた満祐は、非常の決心をする。
将軍義教暗殺、やられるまえにやれ、である。

満祐は、「鴨の子供が生まれたので、是非ご覧下さい」と、
将軍義教をはじめ、何人もの守護大名を自宅へ招き、宴を開いた。
宴が進み、一同が猿楽を鑑賞していたとき、
にわかに屋敷の門が閉じられ、馬が放たれた。
屋敷内が騒然とする中、甲冑をつけた武者が宴の席に乱入し、
義教の首を刎ねて殺害してしまった。
一緒に宴に招かれていた大名たちは、
ほとんど狼狽して逃げ惑うばかりで、
誰も将軍の仇を討とうとしはしない。
武者たちが、目的は義教を討つことだけであり、
抵抗しなければ危害を加えない旨を伝えると騒ぎは収まり、
大名たちはそれぞれに退出していった。

さて、やってしまった。
各大名を生かして帰した以上、満祐による将軍殺害は
すぐさま幕府に伝えられ、討伐軍が編成され襲ってくる筈である。
満祐は潔く切腹するつもりだったが、
来る筈の討伐軍が夜になってもやってこない。
そのため、満祐は徹底抗戦することに決め、自宅を焼き払い、
領国である播磨に帰っていった。
その行く手を阻むものもなく、
満祐はあっさりと領国に帰ることが出来た。

何のことはない、義教という独裁者を失ってしまった室町幕府は、
一時的に機能不全を起こし、
すぐに討伐軍を編成することが出来なかったのだ。
しかし、モタモタともたつきながらも、
守護大名・山名氏を中心とした討伐軍が編成され、
播磨、美作、備前へと四方から襲いかかった。
そして追いつめられた満祐は、たつの市新宮町の城山城にて切腹、
彼の反乱は終わりを迎えた。

この一連の事件は「嘉吉の乱」と呼ばれ、
この事件を期に勢力を伸ばした山名氏と、細川氏の対立が始まり、
やがてそれが応仁の乱へと繋がっていく。
応仁の乱によって室町幕府の支配力は全く無くなってしまい、
後の戦国時代への幕が開くのである。
そう考えてみれば、日本の歴史を大きく転換させる上で、
そのきっかけとなった「謀反」であったともいえる。

この事件をきっかけにして起こった戦国時代。
その戦国時代において、天下を掴みかけた男もまた、
「謀反」によって命を落とした。
そう考えてみれば、なんとも皮肉な巡り合わせである。
「嘉吉の乱」と「本能寺の変」。
どちらも独裁的な、時代の最高支配者に対し、
それに反旗を翻した者がこれを殺し、そしてすぐに滅んだ。
本当によく似た事件である。
かたや「謀反」の代名詞として語り継がれ、
かたや、ロクに人の記憶にすら残っていない。

ここら辺りは、殺された信長と義教との人間の「差」かも知れない。

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