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鶏籠山

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今回取り上げる鷄籠山は、旧龍野市においては歴史的意味合いの高い山だ。

室町時代の守護大名、赤松一族の龍野城のあった山である。

あった、というのは過去形だ。

だが、現在のたつの市にも龍野城は現存している。

まずはここの矛盾から、はっきりさせていくことにしよう。

龍野城は室町時代の明応8年(1499年)、赤松村秀によって築城された。

赤松氏は播磨に大きな勢力を持っていた豪族で、

足利尊氏が室町幕府をひらく際に大きく貢献し、その版図を広げた。

だが嘉吉元年、赤松満祐が嘉吉の乱を起こし、赤松氏は一旦滅びる。

が、間もなく赤松政則によって再興を果たした。

後に起こった応仁の乱で、東軍細川勝元に協力し、播磨・美作・備前の守護に

返り咲く。

この赤松政則の子が龍野城を築城した、赤松村秀になる。

村秀は鶏籠山頂に龍野城(元祖)を造った。

当時としては合戦を意識した山城を築くのは、当然のことである。

赤松氏が造った白旗城、置塩城、亀山城はどれも山城である。

龍野城(元祖)もこの例に習っている。

だが天正15年(1577年)、赤松氏は龍野の領主の座を追われ、

かわりに豊臣秀吉の家臣である蜂須賀正勝が、龍野領主の座につく。

以降は次々と藩主が変わり、江戸時代初期の1672年、

龍野市民にもなじみの深い、脇坂安治が領主になる。

この時に山頂にあった龍野城(元祖)は棄却され、山麓にあった居館を改築し

現在ある龍野城になったのである。

このように鶏籠山山頂には、旧龍野城の城跡がある。

これがこの山の最大の特徴といえる。

この山の登山ルートは2つだ。

紅葉谷から両見坂まで登っていき、そこから尾根伝いに山頂を目指すルート。

もうひとつは現龍野城の裏手から山に入り、そこから山肌を登っていくルート。

このルートの場合、紅葉谷を少し登った所から、右手に曲がり、

山麓を巻くように龍野城の裏手まで歩くこともできる。

今回はこの現龍野城の裏手から登っていくルートを、紹介する。

と言っても、このコースを登っていく場合、ルート途中に

目印となるようなものが特にないので、細かく説明することが難しい。

高さは218m、それほど高さのある山ではない。

しかし鷄籠山の登山コースは、足場の良くない所も多く、

しっかりと登山準備をして登らないといけない。

間違っても、龍野観光のついでに、革靴やハイヒールなどで登るなど言語道断。

龍野城の裏手から山に入る場合、鹿よけの柵と扉がある。

これを開けて山に入るわけだが、必ず閉めること。

そのまま踏み跡を辿るように登っていくと、左手からの道と合流する。

これが紅葉谷からの巻き道だ。

合流地点から東側へ進んでいくと、やがて登りが始まる。

しばらく登ると、ルートは再び東向になり、トラバース気味に

登っていくことになる。

尾根まで行き当たると、大きく左に曲がり、

以降は尾根上を登っていく。

やがてひとつ目のピークに達する。

すでにここは旧龍野城の郭内である。

所々に往時の石積などを見ることができる。

が、ここはまだ山頂ではない。

このさらに北側に、もう一段高いピークがあり、そこが鶏籠山山頂である。

ここには旧龍野城城趾の石碑がある。

先ほどのピークが「二の丸」、そしてこの山頂に「本丸」があった。

高度も低く、展望もないので登山としての充足感は少ないが、

歴史的な意味の高い山である。

大河ドラマ「軍師勘兵衛」で、幼少期の軍兵衛が龍野勢に捕まり、

龍野城に連行される場面があったが、それこそがまさにここである。

(もっとも、あれはフィクションであろうが)

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