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織部焼き

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「織部饅頭」という饅頭がある。

味としては、普通の饅頭とほとんど変わらないのだが、
その見た目に、ちょっとした特徴がある。
白い饅頭の皮に、刷毛で塗ったか、上から滴らせたような
緑色の模様の入っている饅頭のことである。
多くの場合には、この緑色の模様の他に、
焼き印によって茶色い模様が入っている。
地肌の白、塗られた緑、焼き印の茶色が、独特の雰囲気を作っている。
ほとんどの場合、緑色の模様は抹茶を使ってつけられているので、
ものによっては、普通の饅頭に
かすかな茶の風味が足されているかも知れない。

この「織部饅頭」において、「織部」というのは
この3色の組み合わせのことを言っている。
この3色の組み合わせが、陶器の「織部焼き」の模様に
似通っているからである。
「織部焼き」の色使いを模しているから「織部饅頭」というわけだ。

では、ここから1つ遡って、「織部焼き」を見てみよう。

「織部焼き」は、桃山時代の慶長10年ごろから
元和年間ごろまで、美濃地方で生産されていた陶器のことである。
時代的にいえば、徳川家康が江戸幕府を開いたころに始まり、
大坂の陣で豊臣家が滅びたころまで、と考えれば
分かりやすいかも知れない。
美濃地方で焼かれていた陶器は「美濃焼き」と称されることも多いので、
この「織部焼き」も、そういう意味では
「美濃焼き」の一種ということになる。
茶人・千利休の弟子であった大名・古田織部の指導によって
作られたため、彼の好みが前面に押し出された作風になっていて、
「織部」の名前は、ここからきている。
歴史を見ていけば、戦国大名としての「古田織部」は
かなりマイナーな部類に入る人物であるが、
ひとたび、「茶」の世界での立ち位置ということになると、
俄然、その重要度が増すという、面白い人物である。
古田氏は、もともと美濃国の守護大名であった土岐氏に仕えていたが、
織田信長の侵攻によって、信長に仕えるようになり、
その後、豊臣秀吉に仕えるようになった。
まあ、この時代を生き延びた中堅・弱小大名の、
定番のようなコースだ。
歴史上で名前が大きく出て来なかった所を見ると、
戦闘・政治的には、それほど目立つ人物ではなかったのだろう。
全く、茶の湯を中心とした芸術的なセンス以外、
突出したものが無かったのかも知れない。
そんな古田織部だが、一説によると「茶」に傾倒したのは
40歳とかなり遅かったようである。
(それくらいにならないと「茶会記」に名前が出て来ないらしい)
ここから一気に「茶人」として、
歴史に名前が残るほどになったわけだから、
その傾倒ぶりの凄まじさが伺える。
もう、完全にそっちの方向の才能だけに
特化した人物だったとしか思えない。
そんな彼が「織部焼き」を焼かせるようになったのが、
ちょうど、徳川幕府がひらかれた翌年である。
彼は多くの豊臣大名と同じく、関ヶ原の戦いにおいて
東軍についていたため、しっかりと本領を安堵されていたのだろう。
ある程度、時代も安定したことから、
かつてから憧れのあった作陶に手を出してみた、という所だろうか?
(もっとも、本人が粘土をいじり回したわけではないが……)
彼は、平和な江戸という時代において、
2代将軍・徳川秀忠の茶の湯の指南役にもなっており、
相当に充実した晩年を送っていたに違いない。

だが、いいことばかりは続かない。
慶長20年(1615年)、大阪夏の陣の折に、
彼の家臣が豊臣方に内通し、
放火を企んだ疑いで京都所司代に捕らえられ、
彼自身も、豊臣方に内通したとして、
大阪城落城後に切腹させられてしまうのである。
彼が本当に、豊臣方に内通していたかどうかは分からない。
常識で考えれば、将軍の茶の湯の指南役という、
美味しすぎる役職を持っていた彼が、
そうホイホイと豊臣方に内通するとも思えない。
仮に豊臣家が天下をとったとしても、
今より扱いが良くなるとは考えられないのである。
もし、本当に豊臣家に内通していたとすれば、
まだまだ「武」がものを言った時代に、
自分の「武」が乏しいことにコンプレックスを持っていた織部が、
一躍、時代の中心人物になることを目論んだ、とも考えられるが、
実際には、ちょっとあり得ない話だろう。
だとすれば、将軍の茶の湯の指南役と言う、
抜群の待遇を手にれた彼に周囲の嫉妬や、危機感が募り、
大阪夏の陣を口実にして、無実の罪をひっかぶせたと考えた方が
充分にあり得そうな話である。

真実はともかく、大阪夏の陣の豊臣方への内通を理由として、
古田織部は切腹して果てた。
全く申し開きをしなかったというから、
ひょっとしたら、かつて豊臣秀吉に切腹させられた師匠・千利休と
現在の自分の姿を、重ねあわせていたのかも知れない。
いずれにしても、創設者である古田織部の死によって、
「織部焼き」は急速に衰退していく。
販売店の中には、大量に「織部焼き」を
廃棄した所もあったというから、
恐らくは、天下の大罪人・古田織部に通じるものとして、
余計な火の粉が降り掛かるのを、恐れたのだと思われる。

こうして一旦は滅び去ってしまったかに見えた「織部焼き」だが、
江戸後期になると、瀬戸の陶工がその伝統を再興した。
美濃と瀬戸は、隣同士と言ってもいい位置関係にあったので、
より、先進的な気風を持っていた瀬戸の陶工が
これを再興した、とも考えられる。
先に書いた「織部焼き」の配色を模した「織部饅頭」も、
江戸時代末期ごろの記録の中に出てくることから、
このころにはすでに、「織部」という言葉は一般的なものになっていて、
とくに幕府に咎められるような態のものではなかったのだろう。
(あるいは、すでに幕府の力と権威が衰退していた、
 ということかも知れないが……)

「織部焼き」は、いびつな形、派手な文様、味わい深い暗緑色といった、
それまでの陶器には無かった、斬新なスタイルを持ち合わせていたが、
ちょうど江戸時代の初期に衰退してしまったため、
その歴史には、かなり大きな空白期間がある。
先にも書いたような、白い器肌に緑と茶色の文様が大きな特徴だが、
実はこの定番の「青織部」の他にも、
そのスタイルによって10種類以上の「織部」が存在している。
この辺りに、茶人・古田織部の貪欲な作陶精神を感じることが出来る。

白い下地に、深緑色の塗り、焦げ茶の線画で出来上がる
シンプルな「織部」模様は、古田織部の時代から数百年を経ても、
「和」の雰囲気を持った素朴な美しさを感じさせてくれる。
この「織部」という、後の世に残るスタイルを生み出した辺り、
彼は、日本の芸術家の中でも、
抜きん出たデザインセンスを持っていたのは間違いない。

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