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報恩講

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先日、うちの地区で「総報恩講」というものが執り行われた。

先に回覧板によって、「総報恩講」のお知らせというのが回ってきており、
それによると、毎年行なわれているこの行事の準備が、
今年はうちの「班」の担当、ということになっているらしかった。

ここで自分は悩むことになる。

「報恩講」というものが、どういうことを行なうのか?
ということについて、自分はそれほど詳しく知らない。
今までに、参加したこともない。
何故かといえば、「報恩講」というのは、
仏教の「浄土真宗」の行事であり、我が家は同じ仏教でも
「真言宗」だからだ。
宗派が違っている。
この宗派の違いというのは、わりと大きなものだ。
同じ(日本国内の)仏教というカテゴリー内であっても、
宗派が違えば、当然、その教えの中心になっている部分も
違ってくることになるので、それによっては
まるで別の宗教かと思えるほど、様相が違ってくることがある。

そういう意味で言えば、「真言宗」の自分が
「浄土真宗」の行事である「報恩講」に参加するというのは、
ちょっと問題がある様な気もしてくる。
まあ、もっと大きなカテゴリーで言えば、
仏教ですらないキリスト教会のクリスマス会に参加したこともあるので、
今更、宗派の違いなんて……という風にも思うのだが、
むしろこういう宗教などといったものの場合、
キリスト教のカトリックとプロテスタントの対立宜しく、
自分と近い立場のものに、より敵愾心を持つということもある。

とはいえ、「総報恩講」が地区の行事の1つとして執り行われており、
その準備の担当になっている、ということになれば、
これは単純に、宗教上の問題だけでは無くなってくる。
自治会的……というか、ご近所付き合い的な意味合いも
出てくるからである。
色々と考えた挙げ句、結局、事前の準備だけ参加しよう、と決めた。
そこの所だけ顔を出しておけば、肝心の「総報恩講」部分に出なくても、
「宗教上の理由で〜」という、言い訳も立つ。

そう考えて当日、午前中に、会場となる公民館へと出かけていった。

改めて調べてみた所、「報恩講」とは、
『浄土真宗の宗祖(開祖)とされる親鸞の祥月命日の前後に、
 宗祖・親鸞に対する報恩謝徳のために営まれる法要のこと』
とあった。
「祥月命日」というのは、人の死亡した月日のことをいう。
今回の場合、親鸞の入滅した日は11月28日とされているため、
一般的に「報恩講」は、その前後に開催されることが
多いということになる。
……。
そう。
今回、「報恩講」について調べてみた際、もっとも首をひねったのが
この開催日についてである。
色々調べてみた所、「報恩講」が行なわれるのは
やはり11月28日前後が多く、いくつかの例外として、
1ヶ月早い10月28日前後や、1月16日前後というのはあったものの、
うちの地区の様に、3月21日に「報恩講」をやっているという所は
なかった。
1ヶ月早くやる理由というのは全く分からなかったが、
1月16日というのは、旧暦の日付を新暦のそれに
換算し直したものらしい。
そういう意味では、1月16日に「報恩講」を行なう理由も納得である。

まあ、無理に理由を考えるとすれば、
今年の3月21日は「春分の日」である。
この日を中心とした前後1週間ほどは、お彼岸ということになり、
仏教的にいえば、祖先供養の彼岸参りが行なわれる。
「報恩講」の本来的な日付である11月28日は平日のため、
地区の行事として、これを執り行っても参加できる人は限られてくる。
そのため、これを思い切ってお彼岸の時期までずらしたのではないか?
お彼岸中であれば、春・秋ともに「春分」「秋分」という祝日があり、
多くの人間がこれに参加しやすい。
そのため、うちの地区では「報恩講」を
この時期にずらしたのかもしれない。

会場である公民館に着いてみると、すでに多くの人が集まってきており、
「報恩講」の会場の設営は、ほぼ終わってしまっていた。
うちの地区には、古くからこの行事に参加している人が多いため、
そういう人たちが手早く、パパッと会場を設営してしまう。
そのため、自分を含む多くの人たちは、手持ち無沙汰に
突っ立っている時間の方が多い有様だった。
午前中に行なわれた「報恩講」準備は早々に終わってしまい、
後は、午後から行なわれる「報恩講」本番である。
先にも述べたように、自分はこの本番に参加するつもりがなかったのだが、
わずかとはいえ会場の設営を手伝ったため、
「報恩講」というものが、どういうことをするのか、
ちょっと見てみたい様な気になった。
そこで、「報恩講」の開始時間に公民館へ赴き、
素知らぬ顔で、この行事に紛れ込んでみた。

会場に入ってみると、すでに多くの人が席に座って
「報恩講」の開始を待っている。
座席には紙が一枚置いてあり、それを手に取ってみると
これが歌詞カードである。
何故、こんな所に歌詞カードが?と首をひねっていると、
袈裟を着たお坊さんが、会場に入ってきた。
そのお坊さんの手には、何故かギターが握られている。
どうやら、この日の「報恩講」の流れは、
読経→講話→歌ということになっているらしい。
驚いたことに、会場には小学生くらいの子供も多い。
そして自治会長の挨拶の後に読経が始まったのだが、
そこからが圧巻であった。
お坊さんのあげるお経に和して、会場中お経の大合唱だ。
大人たちだけでなく、先の子供たちも大きな声を出してお経を上げている。
その迫力に驚く「真言宗」の自分。
自分の全く聞いたことのないお経である。
「浄土真宗」ということは「阿弥陀経」であろうか?
このお経の大合唱は、ほぼ30分近く続いた。
その中でただ頭を下げて、ひたすらそれを聞くだけの自分。
全く馴染みのないお経を聞き続けるというのは、結構辛い。
後、どれくらいで終わるのか、予想もつかないのだ。
結果、読経が終わるころには、自分はすっかり疲れ果てていた。

読経の後に講話という流れだったのだが、
その間に、暫時休憩を入れるということになったので、
そこで、そっと会場を抜け出した。

うちの地区で行なわれた「総報恩講」というのが、
普通の「報恩講」と、どう違うのか?ということに関しては、
調べてみても、ハッキリとしたことは分からなかった。
自分なりの解釈をするのならば、
地区をあげて行なう「報恩講」ということだろうか?
地区会長の話を聞いた所では、こういった「総報恩講」を
執り行っている自治体も減っていて、
揖西町の中では、うちの地区の他にもう1つあるだけだという。

「浄土真宗」というのは、仏教の宗派の中でも最大の勢力で、
地域によっては、住民のほとんどが「浄土真宗」の門徒であるという所も
少なくない。
「総報恩講」という仏教行事が、未だに続いているということは、
うちの地区もまた、「浄土真宗」の門徒の多い土地ということなのだろう。

ただ、うちの地区も近年、新興住宅化の波が押し寄せ、
新しい住民も増えてきた。
新しい住民が「浄土真宗」であるとは限らず、
また、「浄土真宗」であっても、
そういう行事に熱心な門徒であるとは限らない。

そう考えれば、この「報恩講」という行事も、
やがては忘れられていくものなのかもしれない。

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