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消えたアイを追う~その1 龍野と阿波と蜂須賀氏

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「消えたアイを追う」などと書くと、自分を知っている人間は、

あいつ、ついにおかしくなったか、などと思われるかもしれない。

それほどポエミィなタイトルだ。

安心してほしい。

おかしくなってなどいない。

何故ならここでいう、「アイ」とは「愛」でなく、「藍」だからだ。

だから今回のタイトルを正しく書けば、

「消えた藍を追う」

ということになる。

こう書くと、ポエミィさは無くなったが、

まるでどこかの推理小説のようだ。

もちろん、ここから推理ドラマが始まるわけではない。

今回は、自分の住むたつの市と、藍の関係について書いていく。

播州龍野を支配していた人物というと、

2つの名前が挙る。

室町時代から戦国期まで、龍野のみならず、

播磨・美作・備前を支配していた「赤松氏」と、

江戸時代、龍野藩の領主であった「脇坂氏」だ。

多くの人は、古代→鎌倉時代→赤松時代→脇坂時代→明治維新以降という、

イメージを持っている。

大雑把に区分けするならば、これでもいいと思う。

ただ実際には、龍野を支配した存在は、

「赤松氏」「脇坂氏」の他にも存在していた。

実際には、赤松時代→脇坂時代の間に、何人もの領主がいたのだ。

豊臣時代の「蜂須賀正勝」、「福島正則」、「木下勝俊」、「小出吉政」、

徳川時代には「池田輝政」、「本多政朝」、「小笠原長次」、「岡部宣勝」、

「京極高知」である。

最後の「京極高知」の後に、「脇坂安政」が龍野藩主となり、

以降、明治維新まで龍野藩を支配することになる。

実に赤松氏→脇坂氏の間には、9家の支配者がいたのである。

それぞれ、最短で1年、最長で21年の支配期間であった。

この中で、今回注目するのは蜂須賀正勝だ。

長らく龍野を支配してきた赤松氏を、織田信長配下の羽柴秀吉が退け、

代わりに龍野の領主となったのが、蜂須賀正勝だった。

彼は別名、蜂須賀小六とも言われる人物で、

「太閤記」などでは野盗の親分として描かれている。

本来は尾張国国東郡蜂須賀郷を根拠とする国人領主で、

木曽川で水運業を行なうことで、利益を得ていた。

ちょうど、尾張織田氏の勢力圏と、美濃斉藤氏の勢力圏の間に位置しており、

これらと時には敵対し、時には同盟することで、独立を保っていた。

後に秀吉の配下となり、彼に従って播磨、中国、四国攻めに従軍した。

その蜂須賀正勝が、龍野5万3千石の領主となったのは、

天正10年(1581年)だとされている。

この後、蜂須賀氏が阿波へと国替えになるまでの10年足らずの間、

播州龍野は蜂須賀氏の所領であった。

……全然、藍がでてこないじゃないか、と思っているだろう。

安心してほしい。

今、出てくる。

阿波へと国替えになった蜂須賀氏は、

その際、龍野にいた藍職人達を残らず阿波へ連れていった。

そのため、龍野の藍染めが無くなってしまったという。

……聞き捨てならないことである。

これがもし真実であったとすれば、当時の龍野近辺には藍染めを生業とした

集団があったということになる。

蜂須賀氏が移った阿波は、もともと藍栽培が盛んであった。

蜂須賀氏の移入後は、藩を挙げて藍を奨励し、

後に阿波25万石、藍50万石と呼ばれるほどになる。

これは阿波の石高は25万石であるが、藍産業によって50万石もの

経済力を持っている、という意味である。

それだけ、阿波の藍は質が高く、阿波の藍を「本藍」、

それ以外の藍を「地藍」と呼んで区別したほどであった。

その阿波藍の質を高めるために、

龍野から藍職人を連れていったと思われる。

何か、証拠らしきものが残ってないか、調べてみた。

もし、蜂須賀氏が本当に龍野の藍職人を全て連れていったのなら、

阿波でも、彼らはまとまって住んでいたはずである。

恐らくは城下町か、それに近い、藍の加工場のある場所だったはずだ。

徳島城は、現在の徳島市役所の東側にあった。

その辺りには、藍場町と紺屋町という地名がある。

恐らくは、ここに藍職人たちが住んでいたのに違いない。

この近くに「龍野」の名前を冠した地名でもあればよかったのだが、

残念なことに見当たらない。

ひょっとすれば、藍場町か紺屋町の中に住んでいたのかもしれない。

少なくとも、徳島側には龍野との繋がりを示す地名は、残っていない。

逆に龍野側ではどうか?

いくら全ての藍職人が阿波へと移動したとはいえ、

それまで龍野で藍を扱っていたのなら、

その名残が、地名に残っていてもおかしくない。

そう思って、旧龍野市域はもちろん、現たつの市域の地名も調べてみたが、

藍を感じさせる地名は存在しなかった。

初めから、地名に「藍」を感じさせるものがなかったのか、

あるいは藍職人たちの町の消滅で、町名も消えてなくなったのか?

どちらにしても、龍野にも藍の痕跡は発見できなかったのである。

地名からは、阿波と龍野、龍野と藍を、結びつける証拠はなかった。

しかし、調べてみると、あちこちに、

「龍野では藍染めが行なわれていた。

 龍野の領主となった蜂須賀氏は、これを保護した。

 蜂須賀氏は阿波に国替えになる際に、龍野の藍職人を連れていった。

 結果、阿波の藍はさかんになり、龍野の藍はなくなってしまった」

という旨の記述がある。

龍野側だけでなく、阿波の方でも

「播州から移ってきた蜂須賀氏が、藍を持ち込んだ」

という説があった。

実際は、蜂須賀氏が移ってくる前から、藍は栽培されていたので、

これは事実とは違っているが、蜂須賀氏が藍を奨励したのは事実だ。

また、蜂須賀氏が阿波に入った際に、龍野から藍職人を連れていったのも、

確かなようである。

地名からのアプローチは、ここでいったん断念し、

次回は、藍と藍染めについて調べ、

そこに龍野と藍を繋ぐ、証拠がないかを探っていく。

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