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宮本武蔵~二刀流

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宮本武蔵といえば、二刀流で有名である。

「二天一流」、「二刀一流」とも呼ばれるそれは、

まさに彼の代名詞であり、ゲームなどで武蔵が登場する場合、

彼をモデルにしたキャラクターは、必ずと言っていいほど、

刀を2本、もっている。

無理もない。

現在残っている、武蔵の肖像画のうち、その立姿を描いたものでは、

しっかりと2本の刀を握りしめているのだ。

さすがに武蔵にポーズをとらせて、それを描写したわけではないだろうが、

武蔵を表現する上で、2本の刀というのは、欠かせない要素だったようだ。

そもそも、なぜ二刀流は存在するのか?

日本における二刀流は、利き手に長刀、反対の手に脇差しを持って、

行なうことが多い。

単純に利点を考えれば、手数が増えるという点である。

しかし本来両手で持つものを、片手で持っているために、

どうしてもパワー、スピードにおいて、劣ることになってしまう。

二刀流は攻めよりは、守りに長けているため、多人数に囲まれた場合、

その場を切り抜けるための方法としては、有効でだっただろう。

実際に、武蔵が多勢の漁師と争いになった時、木刀と側にあった舟の櫂を両手に持ち、

これと戦ったという話もある。

剣道の試合でも、二刀を持たせた防御一辺倒の選手を、

引き分け狙いで使う作戦が横行し、二刀流が禁止になったことがある。

パワー、スピードに欠ける分、攻めには弱いが、守りに強いというのが、

二刀流の本質であるようだ。

生涯60以上の真剣勝負をしたという武蔵だが、

実際にはそれ以上に、その高名さから、勝負を挑まれることも多かっただろう。

そういう場合、1VS1の勝負であったとは限らない。

相手によっては、人数に頼り、武蔵を討取ろうとする輩もいただろう。

そういう場面では、生き延びるための手段として、

守りに長けた二刀流が必要だったのかもしれない。

武蔵がどのようにして、二刀流に開眼したかというのは、はっきりしない。

様々な説がある。

書き出してみよう。

・美作・讃甘神社の祭りで、太鼓のバチさばきを見て、思いついた

・姫路・飾磨の浜、あるいは福山・鞆の浦で、多勢の漁師と争った時、

 とっさに木刀と舟の櫂を両手に持ち戦い、これがヒントになった

・鎖鎌の宍戸某と戦った時、大刀を構えながら小刀を投げつけ勝利したが、

 この時の経験から、二刀の有利さに気づいた

どの説もはっきりとした証拠はなく、信憑性に乏しい。

しかし、あえていうなら、姫路・飾磨の浜で多勢の漁師と戦ったという説を、

押したい。

なぜなら、武蔵の二刀流は、最初「円明流」と呼ばれ、

その発祥の地は、武蔵が逗留していた、龍野の「円光寺」だというのが、

有力な説だからだ。

つまり播磨近辺において、二刀流開眼のきっかけをつかんだ可能性がある。

上記した3つの説のうち、鎖鎌の宍戸某と戦ったのは、伊賀でのことだ。

美作・讃甘神社は、播磨に隣接しているとはいえ、

龍野からの距離という点では、飾磨に比べ、かなり距離がある。

その点、飾磨であれば龍野からの距離も近いし、

何より、当時使われていた揖保川の水運を使えば、

舟に乗ったまま飾磨に行くこともできたはずだ。

そうなると、龍野・飾磨というのは実際の距離以上に、近かった可能性がある。

龍野「円光寺」で、剣術を教えていた武蔵。

当時の弟子の中に、多田半三郎という人物がいた。

武蔵は自らが編み出した、二刀を基本とする剣術を「円明流」と名付け、

半三郎に「円明一流の兵法」なる免許を与えた。

半三郎は、息子である多田祐久に「円明流」を伝え、

さらに佑久は後に広島・浅野藩に仕官し、そこで「円明流」を伝えている。

彼らの末裔の持つ資料が公開され、

「二刀流龍野発祥説」が脚光を浴びているのである。

だが、実際に武蔵が試合において、二刀を使ったという事例は少ない。

現在に伝えられているものでは、尾張藩徳川義直の御前試合で、

その家臣と立ち会った時と、姫路城下で三宅軍兵衛と対決したときくらいである。

しかも三宅軍兵衛との対決では、特に相手を打ち倒すこともなく、

格の違いを見せつけ、降参させている。

現在、剣道の試合において二刀流というのは、まず見ることはない。

守りに強い二刀流は、スポーツとしての剣道の世界では、

そのメリットというものを見いだしにくい。

守りに強い、ということが、勝ちに繋がりにくいからだ。

つまり「刀」という武器が実用されなくなった時、

二刀流は衰退していくしかなかった。

それは返していえば、二刀流が実戦向きであったともいえる。

生涯で60回以上の勝負をし、これにことごとく勝ってきた、

宮本武蔵ならではの、流派であったことは間違いない。

次回は武蔵の最大の見せ場、巌流島について書いていく。

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