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宮本武蔵~巌流島

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宮本武蔵のエピソードを語る上で、巌流島の決闘は欠かせない。

他のエピソードを知らない人でも、

このエピソードだけは知っているという人も多い。

巌流島で待つ、佐々木小次郎。

武蔵はやってこない。

遅れに遅れて、武蔵が現れる。

すでに小次郎はカンカンだ。

怒りとともに、愛刀「物干竿」を抜き放ち、その長い鞘を投げ捨てる。

「小次郎、破れたり」

「何!」

鞘を捨てるということは、もう刀が鞘に戻ることがない、

すなわち、負けを意味しているという。

怒りに任せて、武蔵に襲いかかる小次郎。

それをひらりとかわし、手に持った木刀を一閃。

小次郎は、ばたりと砂浜に崩れ落ちる。

おおよそ、一般人のイメージする「巌流島の決闘」は、

このような感じではないだろうか?

今回は、宮本武蔵の人生最大のハイライト、「巌流島」について書いていく。

講談でもおなじみの「巌流島の決闘」だが、これは実際に行なわれた勝負だ。

慶長17年(1612年)、関門海峡に浮かぶ小島で、

この日本の決闘史に残る戦いは、行なわれた。

どういう経緯でこの戦いが行なわれたのか?

その背景について見ていこう。

当時、この巌流島は舟島といい、小倉藩細川家の所領だった。

島が舟の形をしていたことから、舟島と呼ばれていたらしい。

この舟島が「巌流島」と呼ばれるようになったのは、

武蔵と小次郎の対決が、関係している。

というのも「巌流」というのは、佐々木小次郎の号で、

これは武蔵が「二天」を名乗っていたのと同じである。

つまり、この島の名前には、小次郎の名前が付けられているのである。

どうして勝った武蔵の名前ではなく、敗れた小次郎の名前が付けられたのか?

決闘が行なわれた当時、佐々木小次郎は小倉藩の剣術指南をしていた。

当主・忠興の庇護を受け、藩内に一大勢力を築いていた。

一方の武蔵の養父・新免無二之助も、同じく小倉藩内にて、

剣術指南をしており、こちらは忠興の嫡男・忠利の庇護を受けていた。

ひとつの藩内に、2つの流派があれば、勢力争いが起きるのは必然ともいえる。

これに、忠興・忠利親子の勢力争いも加わった。

つまり藩内の、新旧の勢力争いだ。

巌流島の決闘は、この小倉藩内を二分した勢力争いの、代理戦争でもあった。

講談では、この巌流島の決闘は、武蔵の仇討ちということになっている。

つまり、佐々木小次郎により、父・新免無二之助が殺され、

武蔵がその仇を討つ、という筋書きになっているのだ。

もちろん、これは史実ではない。

江戸時代に流行った芝居の筋書きでは、忠臣蔵のような「仇討ちもの」が、

人気を博していた。

この人気にあやかって、巌流島の決闘も、

武蔵の仇討ち物語に、書き直されたものだと思われる。

先に書いた通り、この決闘は私的なものではなく、

藩内の勢力争いの、代理戦争といえるものである。

つまり小倉藩公認の、正式な試合であった。

そんな試合で、遅刻など許されるはずがない。

武蔵が試合にわざと遅れ、小次郎を怒らせたという話だが、

そんな姑息な手段が使える試合ではないのだ。

もし試合に遅れようものなら、それこそ試合は不戦敗、

武蔵の名前はもとより、父・新免無二之助の名前も地に堕ち、

小倉藩にはいられなくなるだろう。

伝えられている話では、武蔵は舟島に向かう舟の中で櫂を削り、

木刀を作ったといわれる。

しかし下関から舟島まで、30分もかからない距離である。

小刀でちまちまと木刀を削り出していて、間に合うような時間ではない。

そんな短い時間で、櫂から木刀を削り出すのならば、

電動工具でも使わなければ、完成はおぼつかないだろう。

さらにいえば、削り出したものを、試しに振ってみる時間もないのである。

そんないい加減なことを、するはずがない。

武蔵の武器が櫂から削り出した木刀であったとしても、

それはあらかじめ、用意されていたものに違いない。

かくして物干竿の小次郎と、木刀の武蔵。

舟島での試合となる。

真剣と木刀では獲物に差がある、と思われるだろうが、

同じ長さの真剣と木刀では、真剣の方が随分と重くなる。

当然それだけに剣速は遅くなる。

まして小次郎の場合、通常の刀よりも長い「物干竿」である。

獲物を振る速度、という点で見れば、随分と武蔵が有利だったに違いない

また、獲物が大きい分、どうしても大振りにならざるを得ず、

隙が生じやすいということもあっただろう。

実際の試合が、どのような展開を迎えたのか?

講談、小説、ドラマ、様々な展開が繰り広げられる。

しかし、そのどれをとっても、創作の色が濃く、史実を捉えているとは思えない。

そんな中で、もっとも信頼できるといわれているのが、

「沼田家記」と呼ばれる記録である。

これは、舟島の管轄をしていた沼田家の高官が、決闘の様子をまとめたものだ。

あくまでも事務的な記録として、決闘の様子が書かれており、

その信頼性は高いといわれている。

それによれば、最初に仕掛けたのは小次郎だったという。

武蔵はそれをかわし、一撃目を頭に、二撃目を胸に打ち込んだ。

これで勝負は決し、武蔵の勝ちが決まった。

小次郎は絶命したと思われていたが、しばらくして息を吹き返す。

これを見て驚いたのが、武蔵の弟子達だ。

決闘場である舟島への立ち入りは禁止されていたが、こっそりと上陸し、

2人の試合を見ていたのだ。

彼らは息を吹き返した小次郎に襲いかかり、打ち殺してしまった。

……。

現代人の感覚でいえば、何もそこまでしなくてもという気もするが、

やはり小次郎に生きていられては、争いは終わらないと思ったのかもしれない。

そしてそれを、しれっと記録に残す、沼田某。

さすがにこの記録はすぐに明らかにされず、

「沼田家記」としてまとめられたのは、武蔵の死後、

45年も経ってからであった。

武蔵の弟子がこっそり島に隠れていた点、

さらに試合後、息を吹き返した小次郎を撲殺した点。

いろいろと問題はあるが、それでも試合に武蔵が勝ったのは事実である。

武蔵はこれ以降、一切の決闘と決別する。

さすがにいろいろと、思う所があったのかもしれない。

この島の名前が、勝った武蔵の名前でなく、

敗れた小次郎の名前が付けられたことも、ある種、非業の死を遂げた小次郎に、

人々が同情した結果かもしれない。

次回は、武蔵の剣以外の事蹟を追ってみたいと思う。

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