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記憶に残る「船」〜ドレッドノート

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「超ド級」という言葉がある。

現在では、様々な分野において使われている
この「超ド級」という言葉であるが、その意味は、
「同類のものより、桁違いに大きいこと」
「並外れて大きい等級」
というものである。

もちろん、「超ド級」という言葉をそのまま捉えれば、
「ド級」を超えた、という意味になる。
さらにこの「ド級」という言葉を見た場合、
「級」というのは、段階・程度などを表す言葉になる。
そうなると、残るのが「ド」である。

本などに「ド級」「超ド級」という言葉が載っている場合、
この「ド」が「弩」と表記され、
「弩級」「超弩級」となっていることがある。
この「弩」 という漢字は、「ど」「おおゆみ」などと呼ばれ、
古代中国などで使われていた、矢を発射することの出来る
武器の名前である。
現代でいう所の「ボウガン」に近い。

ここまで書くと、ああ、「ド級」というのは、
「弩(ボウガン)」と同じ程度の大きさで、
「超ド級」というのは、「弩」を超える大きさなんだな、
と思ってしまう。

大間違いである。

この漢字の「弩級」「超弩級」の「弩」というのは、
一種のあて字であり、これを字本来の意味で考えると、
上記のような、とんでもない間違いを起こしてしまうことになる。

では、この「ド」というのは、一体何を表しているのか?
ということになるが、この「ド」が表しているものこそ、
今回のテーマである「船」、戦艦「ドレッドノート」なのである。

20世紀初頭、戦艦設計において、画期的な論文が書かれた。
イタリア海軍の造船官・クニベルディが、
「単一巨砲」戦艦を提案する論文を上梓したのである。

その当時、魚雷は艦船にとって、深刻な脅威であった。
そのころの一般的な交戦距離である2.7kmより
遠い所から撃たれた魚雷が、艦船に命中するだけでなく、
これを撃沈してしまう威力を持っていたからである。
これに対抗するには、従来の艦砲よりも大型の砲を搭載して、
より遠くから、敵を攻撃する以外にない。
だが、そういうことになれば、今までの戦艦のように、
近距離用の中型・小型の艦砲を大量に積むことに意味は無くなり、
より、遠くの敵を狙える大口径砲のみを搭載して、
その長射程を持って、出来るだけ遠方から攻撃するというのが、
もっとも効率的な戦い方、ということになる。
このことを、一番最初に、公に言い出したのが、
先述したクニベルディだったわけである。

それまでの戦艦の設計というのは、
まず、船体を作り上げておいてから、
それに合ったサイズの艦砲を装備するというのが普通であったが、
クニベルディの理論を、より実践的に戦艦に取り入れるためには、
まず何よりも、搭載する艦砲のサイズを優先する必要があった。
そのためは、まず、戦艦に搭載したい長射程の大口径砲を設計し、
それに合わせて船体を設計しなければならない。
この理論に従って、世界で一番最初に作られた戦艦が、
イギリス製の「ドレッドノート」であった。

「ドレッドノート」には、武装として10門の305ミリ砲が、
5基の連装砲塔に搭載された。
この巨砲は、重量390kgの砲弾を、
16km先まで飛ばすことが出来た。
さらにこの「ドレッドノート」には、
動力として蒸気タービンが搭載され、
その船速は時速40kmにもなった。
これは、当時、現役だったどの戦艦よりも速かった。
さらに、それまでの戦艦には常備されていた
体当たり用の衝角が取り付けられていなかった。
この接近戦用の衝角を無くした辺りに、
「ドレッドノート」の戦艦としての性格が、
表れているといえるだろう。

考えてみてほしい。
当時、2.7kmの距離で戦艦同士が交戦してた時代に、
16kmも砲弾を飛ばせる戦艦が誕生したのである。
これはもう、まったく戦いにならないといっていい。
旧型の戦艦たちが、「ドレッドノート」に攻撃を加えるには、
なんとか自らの射程圏内まで、肉迫しなければならないが、
蒸気タービンを搭載した「ドレッドノート」は、
旧型の戦艦たちよりも足が速く、追いつくことが出来ない。
「ドレッドノート」は、全く一方的な射程距離を保ったまま、
戦い続けることが出来るのである。
正直、そこまで戦力に差があれば、それはもう戦いというよりは、
一方的な虐殺といって良い。
全く勝ち目が無いので、逃げ出そうとしても、
相手の方が早いのでは、それすらもままならない。
この「ドレッドノート」の誕生の瞬間、
それまでの全ての戦艦は、時代遅れとなってしまったのである。

だが他国とて、この状態を易々と放置しておいたりはしない。
それぞれの国が、それぞれに「ドレッドノート」に匹敵する
戦艦の建造を始めた。
このとき、作られた言葉が「弩級戦艦」である。
日本初の「弩級戦艦」である「薩摩」が進水し、
さらに1908年には、アメリカ初の「弩級戦艦」、
「ミシガン」が進水している。
(日本の「薩摩」の建造開始自体は、
 イギリスの「ドレッドノート」よりも早かった。
 また、「薩摩」を「弩級戦艦」ではなく、
 それ以前の型である「準弩級戦艦」として分類し、
 この後に建造された「河内」型を、
 日本初の「弩級戦艦」とすることもある)

さて、クニバルディの理屈を推し進めた場合、
戦艦は、より大型で、より長射程の艦砲を搭載しているものの方が、
強いということになる。
もちろん、各国とも「その」考え方に従って、
より大型で、より射程の長い大口径砲を搭載した戦艦の
建造を始めた。
各国とも、「弩級戦艦」を超える長射程の大型艦砲を搭載した戦艦を
競うようにして建造していった。
当然、艦砲が巨大になれば、それを搭載する船体も
同じように巨大化せざるを得ない。
艦砲も、船体も、より大きな戦艦が
次々と建造されていくことになった。
そう、「大鑑巨砲主義」として知られている考え方である。
やがて、航空戦力を搭載した航空母艦が海戦の主力となるまでの時代、
この「大鑑巨砲主義」は、世界中の海軍で
推し進められていくことになるのである。
まさにこの「ドレッドノート」は、
「大鑑巨砲主義」時代の始まりを告げる船であった。

さて、当の「ドレッドノート」のその後について、書いていこう。
「ドレッドノート」の建造によって、
世界各国の大型艦建造競争が始まった。
より遠くへ飛ぶ巨砲、そしてそれを搭載できる巨艦。
大型の新型戦艦が次々生み出されていく中で、
その最初の戦艦「ドレッドノート」は、
より強大な戦艦の中に、あっというまに埋もれてしまった。
後に起こった第1次世界大戦では、
ドイツの潜水艦を相手に、たった一度、戦っただけであった。
(ちなみに、この戦いにおいて「ドレッドノート」は、
 敵潜水艦に体当たり攻撃を行い、これを乗員もろとも海に沈めた。
 そう、遠距離砲撃専門の新時代の戦艦ということで、
 体当たり用の衝角を取り去った「ドレッドノート」の上げた戦果が、
 その砲撃によるものではなく、
 「体当たり」によるものだった、ということは、
 皮肉だったとしか言い様がない)

第1次世界大戦後、建造できる艦数、艦種、規模を制限する、
「ワシントン海軍軍縮条約」が調印された。
各国とも、無制限に海軍戦力を持つことが出来なくなったのである。
そういうことになれば、各国とも、自国の持てる戦力を
全て最新のもので固めておきたい、ということになるのは当然である。
この条約によって、各国の海軍戦力は
最新型の「超弩級戦艦」が占めることになり、
多くの「弩級戦艦」が解体されることとなった。
最初の「弩級戦艦」であり、その由来にもなった「ドレッドノート」は、
この「ワシントン海軍軍縮条約」が調印される前年、
すでにスクラップとして、売却されてしまっていた。

戦艦の歴史のターニングポイントとなった「ドレッドノート」。
その最期は、あまりに寂しいものであった。

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