「帆船」というものを1つ、思い浮かべてみるとしたら、
一体、どのような船を思い浮かべるだろうか?
恐らくは、複数の高いマストに何枚もの真っ白な横帆を張り、
さらにその隙間や、船首、船尾部分にも、
三角形の縦帆をこれでもか、というくらい張り巡らせた、
大型の帆船を思い浮かべるのではないだろうか?
我が国の船でいえば、「日本丸」や「海王丸」などである。
船上に真っ白な帆を張り巡らし、
これらに一杯の風を受けて、海上を疾走する「帆船」の姿は
まさに優美といってもいい、気品あふれる姿である。
この「日本丸」や「海王丸」のように、
細長い船体を持ち、数本の高いマスト一杯に帆を張り巡らせて、
海上を疾走する大型帆船を、「クリッパー」と呼ぶ。
日本語に訳す場合は、「快速帆船」とされることもあるように、
速度を出すことを意識して設計された、帆船である。
積載量よりも速度を重視していたことは、
その細長い船体を見ても明らかで、
この「クリッパー」は、何よりもスピードを重要視される
積み荷を運ぶために作られた、といっていいだろう。
この「クリッパー」の頂点に立つといわれているのが、
今回、紹介する「カティサーク号」である。
船の呼び名に「クリッパー」という言葉が使われ始めたのは、
18世紀のボルティモア・クリッパーだとされる。
この船は小型の快速帆船で、アメリカの大西洋沿岸部と、
カリブ海において活躍していた。
19世紀に入ると、この「クリッパー」が大型化し、
外海へと出て行ける、いわゆる航洋クリッパーへと進化した。
この航洋クリッパーは、
それまでの「船」が持っていたスピード記録を
次々と塗り替えていく。
1854年9月、ジェームズ・ベインズ号が
アメリカ・ボストンから、イギリス・リバプールへの
大西洋横断航路を12日間で航行し、
大西洋の最短横断記録を打ち立てた。
(この記録は、帆走記録として今日でも有効である)
同じ年、ライトニング号が、1日の帆走距離800kmをマーク。
24時間で、この距離を航行したとすれば、
平均時速33kmを出していたということになる。
フライング・クラウド号は、ニューヨークからサンフランシスコまで、
南米大陸最南端のケープホーンを経由するルートで、
89日という記録を打ち立てた。
(この記録は、その後135年間破られなかった)
19世紀という時代、海ではまさに「クリッパー」が主役であった。
この「クリッパー」の中で、特にその名を知られているのが、
中国の「茶」を、イギリスへと運ぶ「ティー・クリッパー」だ。
この「クリッパー」が登場するまでは、
「茶」の輸送には、18~24ヶ月かかるのが常であった。
早くても1年半である。
いくらなんでも時間がかかり過ぎだ、と思われるかも知れないが、
前回紹介した「ヴィクトリア号」が、世界を1周するのに
まるまる3年の月日を費やしていたことを考えると、
イギリスと中国の間の航海で、2年近く時間がかかっても、
決しておかしなことではないだろう。
「茶」というのは、収穫したその年のものを飲むのが、
現代では当たり前のことになっているが、
このころには、その年に穫れた「茶」を、
イギリスで楽しむということは、全く不可能だったのである。
だが「クリッパー」は、この不可能を打ち破った。
なんと「クリッパー」は、100~120日という期間で
「茶」を運ぶことが出来たのである。
イギリスの人々は、この「クリッパー」の登場によって、
その年に穫れた「新茶」を楽しむことが出来るようになった。
「クリッパー」は、その快足を生かし、
まさに海運の華となったのである。
これを読んでいる人の中には、
不思議に思っている人もいるかも知れない。
19世紀といえば、すでに風による帆走を必要としない
「蒸気船」が実用化されていた時代である。
どうして、この最新鋭の「蒸気船」が、
旧型である帆船「クリッパー」に、海運の主役の座を譲っていたのか?
これは当たり前のことだが、「蒸気船」がその機関を動かすためには、
薪なり、石炭なりの燃料が必要である。
当然、船にこれらを大量に積み込む必要があるのだが、
そうしてしまえば、肝心の荷物を積み込むスペースが
大きく削られてしまうことになる。
さらに燃料自体にもコストがかかる。
運べる荷物が少なくなる上、
航行自体に、大きなコストがかかる「蒸気船」は、
経済的に見た場合、風のみを動力源としている帆船に比べ、
かなり不経済だと考えられていたのである。
だが、19世紀も後半に入ったころ、
ひとつの運河の開通によって、この状況に翳りが見え始める。
そう、地中海と紅海を結ぶ、スエズ運河である。
このスエズ運河の開通によって、イギリス・中国の航路は、
なんと一気に6000km以上も縮まったのである。
ただ単純に距離が縮まっただけなら、何の問題もなかった。
だが、このスエズ運河に吹く風は、全く帆走に向いていなかった。
(ほとんど無風だったという話もある)
つまり、このスエズ運河を利用できるのは、
無風状態でも動くことの出来る「蒸気船」だけだったのである。
運河を利用できない帆船「クリッパー」は、
中国(アジア)からヨーロッパへ向かうルートで、
「蒸気船」よりも6000キロも多く、
走ることを余儀なくされたのである。
まさに、このスエズ運河の完成は、帆船全盛時代の終焉となる
ターニングポイントだったといって良い。
今回、取り上げる「カティサーク号」は、
まさにそういった時代に作られた。
最新型の「クリッパー」として作られた「カティサーク号」は、
1870年、まさにスエズ運河が完成した翌年に
初めて中国から「茶」を持ち帰った。
もちろん、スエズ運河は通れないので、喜望峰を回るルートである。
「カティサーク号」は、蒸気船と競合しながら8回、
「茶」を運んだ後、アメリカ・日本・インド・中国・
オーストラリア間を走り回り、様々な荷物を運んだ。
1880年代に入ると、「カティサーク号」は
イギリスとオーストラリアを往復する、羊毛輸送を専門とした。
イギリスを出た「カティサーク号」は、
アフリカ西海岸を南下し、喜望峰を越えた所で強い偏西風に乗り、
一気にオーストラリアまで航行した。
オーストラリアで羊毛を積み込んだ後は、
再び偏西風に乗って、南アメリカ南端のケープホーンを越え、
一気に大西洋を北上、イギリスを目指した。
早い話、一度、イギリス・オーストラリアを往復するごとに、
地球を1周していたわけである。
「カティサーク号」の快速は、オーストラリアからイギリスまでを
わずか70~80日程度で駆け抜けた。
これは、他の船に比べると、20~30日ほど早い。
単純に日数のみで考えれば、1年間のうちに2回、
イギリスとオーストラリアの間を往復できるということになる。
まさにこの航路は、「カティサーク号」の天下といっても
良い状況だったが、その天下は長く続かなかった。
やがて日々、その性能を進化させる「蒸気船」によって、
羊毛輸送からも撤退せざるを得なくなった。
1920年代に入ると、「カティサーク号」は
訓練船として使われるようになり、
1950年代には現役生活に幕を下ろし、
ロンドンのグリニッジにて、常設展示物として
展示されることとなった。
以降は長く、ロンドンの人気観光スポットとなっていたが、
21世紀に入り、2度の火災に遭遇。
幸いにも、両者とも致命的なダメージとはならず、
「カティサーク号」は、現在も、帆船時代の最後の船として、
その姿を我々に、見せ続けてくれている。
日本の「クリッパー」である「日本丸」なども、
長く航海練習船として用いられていた点を見ても、
現在の船乗りの技術や精神は、この「クリッパー」の時代に
その基礎が築かれたといっても良いだろう。
いわば、近代航海術の出発点のような船だったわけだ。
現在でも、この「カティサーク号」をはじめとする
「クリッパー」は、その美しい姿から、大きな人気を博している。