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消えたアイを追う~その2 藍と台風と川

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前回、龍野と藍、阿波と龍野について、

地名などから、その繋がりを模索してみた。

その結果、残念ながら播州龍野にも阿波徳島にも、

お互いの繋がりを示す地名は、見つけられなかった。

今回は、「藍」そのものについて書いてみたい。

その中から、龍野と藍の関係について、考えてみる。

藍というのは、タデ科イヌタデ属の一年生植物だ。

別名として、タデ藍、藍タデなどがある。

関西では、古くからタデ藍と呼んでいたようである。

原産地はインドで、藍色をインディゴ・ブルーと呼ぶが、

このインディゴというのは、インドのことだ。

これが中国を経て、日本に持ち込まれたのは6世紀のことだ。

藍色の染料を得るために、さかんに栽培された。

特に江戸時代、阿波地方で作られた藍は質も高く、

阿波の藍を「本藍」、他の藍を「地藍」と呼んだということは、

前回も書いたとおりだ。

文献的には、平安期の禁中の年中儀式や制度などを記した

「延喜式」(927年)に、藍染めについての記述があり、

これが確認できる中でもっとも古い、藍染めの記述である。

ただ、これ以前に書かれた「日本書紀」に、「藍野の陵」という記述があり、

これは第26代継体天皇の陵のことをさしている。

「藍野」という記述から、当時、近くで藍が栽培されていた可能性もある。

藍は微妙な濃淡によって、その表情を変える。

「藍四十八色」という言葉からも、いかに細かく色分けされていたかがわかる。

水色、紺、浅葱、褐色などは、現在でも使っている言葉だが、

露草色、縹(はなだ)、千草、瓶覗きなどは、現在では聞かない言葉である。

……ここで、いやちょっと待て、と突っ込んだ人は鋭い人だ。

ここに挙げた色の中に、「褐色」がある。

これは青系統というよりも、赤系統の色だ。

あの藍から、そんな色が作れるのか?と思うはずだ。

実は、藍をより濃く染め上げると、赤みを帯びた藍色「褐色」になるのだ。

これは「かっしょく」ではなく、「かちいろ」と呼んだ。

そのため、鎌倉・室町期に入ると、武家の間で好んで使われるようになった。

「かちいろ」が「勝ち色」に通じるためである。

また、藍には止血・殺菌効果があり、

戦場で用いる衣服にも、広く用いられた。

江戸時代に入ると、藍染めは庶民の間にも広まっていった。

これは特に、木綿と藍染めの相性が良かったことによるものだ。

さらに藍で染めた布は丈夫になり、

虫や蛇を寄せ付けない成分が含まれているため、仕事着に最適であった。

前回書いたように、「藍」といえば、阿波といわれるほどに、

阿波の藍は有名であった。

なぜ、阿波地方で「藍」栽培が、さかんになったのだろうか?

その答えは、徳島県を流れる吉野川にある。

高知県の瓶が森山を水源とする吉野川は、徳島平野を西から東へと流れている。

この吉野川は、昔、暴れ川として有名であった。

吉野川の上流は、我が国でも有数の雨の多い地域である。

さらに両岸には、切り立った山が連なっている。

この地形のため、毎年台風の季節になると、吉野川は氾濫し、

流域の人々に大きな被害をもたらした。

阿波地方の藍栽培は、この風土の中で発達してきた。

藍は3月から4月にかけて種がまかれ、収穫期は7月である。

このため、台風による被害を避けることができる。

また、台風によって吉野川が氾濫し、そのとき起こる洪水によって、

肥沃な土が運ばれてくる。

これもまた、藍栽培には有利な点でもあった。

というのも、藍は連作障害が起こりやすい植物で、

同じ土地で続けて栽培すると、連作障害が発生する。

しかし、毎年のように起こる洪水によって、新しい土が運ばれてくるために、

吉野川流域では、同じ場所での連作が可能だったのだ。

つまり阿波地方の藍栽培は、

台風による吉野川の氾濫の影響を受けにくいという、一種の抜け穴的な発想と、

洪水によって連作障害が起きないという、地の利(?)をいかして

作られていたのだ。

台風の影響を受けない、藍栽培であったが、

これは決して楽なものではなく、手間のかかるものであった。

それを歌った俗謡の中に、

「藍の種まき、生えたら間引き、植えりゃ水取り、土用刈り」

というものがある。

わずか4ヶ月ほどしか、栽培期間のない藍だが、

その期間内にはやるべき仕事が山積しており、

「藍作農家には、娘を嫁にやりたくない」

というふうに、言われることもあったという。

さて、ここで話を阿波から龍野に戻す。

徳島平野を吉野川が流れているように、龍野にも揖保川が流れている。

もちろん、台風の時期になれば洪水を起こすこともあったかもしれないが、

吉野川のように、毎年、などということはなかった。

播州は北に山地があるとはいえ、

吉野川沿いほど切り立った山ではなく、高度も低い。

台風がきたとしても、そう毎年、甚大な被害は出なかった。

ほとんどの年は、平穏無事に米が収穫できていたはずだ。

そんな状況の中で、どうして藍を栽培し、藍染めをしていたのか?

疑問は残る。

たしかに、播州でも米以外に麦や大豆が作られていたが、

麦は米と作付け時期が重ならないし、大豆は畑ではなく畦で栽培されていた。

では、藍も畦で?と考えるが、

大豆と藍は作付け時期が重なっている。

ということは、結局、藍のためにわざわざ土地をあけていたことになる。

それだけではない。

先に挙げた、連作障害の問題がある。

洪水の起こらない龍野では、同じ場所での連作はできず、

毎年、藍を植える場所を変えなければならない。

これはかなり面倒だったはずだ。

どうしてそんな手間をかけてまで、藍を作っていたのか?

その理由は、不明のままである。

龍野で藍が栽培できない、という理由はないのだが、

龍野で藍を栽培しないといけない、という理由も見つからないのだ。

なぜ、龍野で藍を作っていたのだろうか?

次回は、藍の製造工程を探りながら、藍と龍野について考えていく。

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