雑学、雑感、切れ味鋭く、思いのままに。

Falx blog 2

歴史 雑感、考察

歴史の裏の裏〜長篠の戦い・鉄砲三段撃ち

投稿日:

日本に「鉄砲」が伝わったのは、
1543年あたりのことといわれている。

それまでは、槍や刀、弓矢などで戦争をしていた日本にとって、
まさに脅威の新兵器の登場であったといえる。
なんといっても「鉄砲」は、現代にいたって尚、
戦争で使われ続けている武器である。
もちろん当時の「鉄砲」は、現代のものに比べて原始的で、
射程が短く、連射も効かず、狙いのつけにくいものであったが、
当時の日本にしてみれば、やはり脅威の新兵器であったのだろう。

日本人のすごい所は、この新しい武器を
「作ってみよう」とチャレンジして、
ちゃっかりと成功させている所だ。
当時、ヨーロッパからやってきた南蛮人たちは、
日本以外のアジアの国にも「鉄砲」を持ち込んでいたが、
この大量生産に成功した国は、日本だけであったらしい。
つくづく器用な民族である。
さらに大量生産が可能になった「鉄砲」は、
日本国内において、せっせと量産され続けた。
当然だろう。
当時の日本は、戦国時代。
早い話、国中のあちこちで戦いが行なわれている状況なのである。
そんな状況下に、南蛮渡来の強力な新兵器が伝われば、
全国の戦国大名たちは、こぞってその性能を調べ、
手に入れようとする。
一説によれば、当時の日本には、
ヨーロッパ諸国のどの国よりも、
多くの「鉄砲」を所持していたという。
(当時のイギリス軍が所持していた「鉄砲」の数が6000丁、
 同時期の戦国大名・龍造寺氏が所持していた数が9000丁)
当時、アジア各国を植民地化していた南蛮諸国が、
日本を武力で侵略しようとしなかったのは、 
所有している「鉄砲」の数が違い過ぎ、
まともに戦っては、勝ちの目が無かったからだろう。
ヨーロッパ人にしてみれば、東の果ての小さな島国の人間が、
「鉄砲」をあっさりと量産し、その所有数が爆発的に増えるなど、
全くの想定外だったに違いない。

その中で、いち早く「鉄砲」に注目し、
これを取り入れた戦国武将が、織田信長である。
型破りな革命児であった彼は、この南蛮渡来の新兵器に注目、
早速これを大量に生産させて、実戦に投入した。
その戦いこそが、かの有名な「長篠の戦い」である。

1575年、武田信玄の跡を継いだ武田勝頼を、
織田信長・徳川家康の連合軍が、設楽が原において打ち破った。
愛知県の東南、静岡県との県境に近い地点である。
この「長篠の戦い」において、織田・徳川連合軍は
3000丁の「鉄砲」を用意して、
それぞれ1000丁ずつの3部隊にこれを分け、
この3部隊で順番に発射することにより、連射を実現し、
武田騎馬軍団を打ち破った、というのが、古くからの定説であった。
ところが近年、この定説が否定的な見方をされるようになった。
織田・徳川軍による「鉄砲」の三段撃ちはなかった、というのである。
その根拠は、こうだ。

・当時の織田軍は、たしかに全国でも有数の鉄砲を保持していたが、
 それでも1000丁ほどしかなかった

・三段撃ちというのは、3人の鉄砲兵が縦に並び、
 一番前の者が発射した後、一番後ろに移動し
 次弾の発射準備をするというものだが、
 これでは、いちいち場所をこまめに移動する分だけ手間がかかり、
 発射の効率が悪くなるだけである

・そもそも「長篠の戦い」では、武田軍が1万5千人だったのに対し、
 織田・徳川連合軍は4万人の兵士を動員していたため、
 普通に戦って、普通に勝っただけである

……。
冷静にこれらの意見を見てみれば、三段撃ちを否定しているのは
第2の「効率が悪い」というものだけで、
第1の「当時の織田家には、
1000丁しか鉄砲がなかった」というのは、
決して三段撃ちそのものを否定しているわけではない。
1000丁の「鉄砲」があれば、これを3つに分けて、
三段撃ちをすること自体は可能だからである。
第3の意見に至っては、
別に三段撃ちとかしなくても勝てたというだけで、
三段撃ちの可否については、全く触れていない。

とりあえず、今回の趣旨、
「古くからの定説を覆した新説に、さらにメスを入れる」に従って、
これらの意見にケチを…、いや、メスを入れてみよう。

まず「鉄砲が1000丁しかなかった」という意見だ。
正直、これについては、何ともいえない。
これ、という明確な答えが出せないからである。
文献の中には「三千丁」とあるのだが、
そのうちの「三」が後から小さく書き足されており、
書き損じて、後で書き足したのか、
本当は「千丁」だったものを、「三」を書き足してねつ造したのか、
判別のしようがないのである。
もっとも千丁の「鉄砲」で三段撃ちをしたとしたら、
1回につき、330発ほどの銃弾が発射されることになる。
普通に考えれば、これだけでも充分に驚異的ではある。

さらに、「織田・徳川連合軍は4万人の兵士を動員しており、
1万5千人の武田軍と、普通に戦って勝っただけである」という意見だ。
たしかに織田・徳川連合軍は、武田軍の倍以上の兵力があるが、
だからといって、「鉄砲兵」がいなかった、
あるいは活躍しなかった、と言い切ることは出来ない。
逆に言えば、そこまで有利な戦いであったため、
あくまでも試験的な意味で、大量の「鉄砲」運用法を試してみただけ、
なんていう考え方も、成り立つのである。

そして、最大の問題である「1発撃って、
後ろに移動する三段撃ちでは、返って無駄な時間がかかる」
という意見だ。
実は、これが一番厄介な意見である。
何故なら、まさしくこの意見の通りだからである。
調べてみた所、熟練の者であれば、
1発発射して次弾を準備、発射するまでに、
およそ20秒ほどかかるらしい。
これは、後の陸軍の実験で明らかになっているので、
まず間違いのない数値だろう。
3000人の鉄砲兵が、全てこれと同じ熟練者であるとすると、
移動の時間さえなければ、20秒間に3発の発射が可能なわけだ。
つまり、約7秒ごとに1000発、発射できるわけだ。
だが、ここに移動の時間が加わってくると、
この計算が大きく変わってくる。
鉄砲兵が後ろへ移動する際には、
「鉄砲」と身体だけ移動すれば済むわけではなく、
銃身を掃除する道具や、弾、火薬などを持って
移動しなければならない。
そうなると移動時間は一瞬では済まず、
十数秒から数十秒かかってしまう。
これはちょっと看過できる数字ではない。
発射の感覚が、とんでもなく間延びしてしまっては、
三段撃ちにしている「意味」自体が、無くなってしまう。

さらに根本的な問題がある。
そもそも三段撃ちをするそもそもの理由が、
「連射を可能にする」というものなのだが、
そもそも20秒に1発発射できるという、前提が変わらない限り、
同じ時間内に発射できる弾の数は、全く同じである。
仮に鉄砲兵に何の指示も与えず、銘々に自由に撃たせ、
そのタイミングがきれいにバラけたとすれば、
1秒ごとに150発の弾が発射され続けることになる。
「連射」ということであれば、
こちらのほうがよほど「連射」状態であろう。
……。
と、いうことはである。
三段撃ちによって発射のタイミングを合わせるというのは、
「連射」というよりは、一種の「溜め撃ち」ではないだろうか?
発射のタイミングを重ねることにより、その破壊力を増し、
敵により大きなダメージを与えようとしたのではないのだろうか。

こうなると、話は大きく変わってくる。
三段撃ちの目的が、従来いわれていた様な「連射」目的でなく、
威力増大のための「溜め撃ち」目的だったとすれば、
わざわざ縦に3人並べて、ローテーションさせる必要はなく、
ただ鉄砲兵たちに「号令とともに発射するように」という命令を
徹底させるだけで、目的を果たすことが出来る。
「溜め撃ち」によって、
もっとも有効なタイミングに、一斉に弾を撃ちかける、
これが元々の目的だったのではないだろうか。

この「溜め撃ち」戦法を見た者たちが、
この戦法の本来の狙いを曲解し、
「連射」のための「三段撃ち」としてしまったというところに、
「三段撃ち」の有無という疑問を生み出した、
根本的な原因があるようだ。

つまり「三段撃ちがなかった」という新説は、
ある意味では真実であるのだが、
その元となった「溜め撃ち」戦法の存在まで
否定してしまっている点、
完璧なものでは無いようである。

さて、次回はこのシリーズの最終回として、
「桶狭間の戦い」の新説について、メスを入れてみる。

Related Articles:

にほんブログ村 その他生活ブログ 雑学・豆知識へ
にほんブログ村

スポンサーリンク
スポンサーリンク

-歴史, 雑感、考察

Copyright© Falx blog 2 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.