雑学、雑感、切れ味鋭く、思いのままに。

Falx blog 2

歴史 雑感、考察

歴史の裏の裏〜桶狭間の戦い

投稿日:

日本史上において、織田信長というのは、
どうしても欠かすことの出来ないビッグネームである。

1534年、戦国時代に生まれた彼は、
その奇天烈な振る舞いから「うつけ」などと揶揄されていたが、
18歳で家督を継ぎ、苦労の末に尾張を統一。
だが、尾張を統一した信長の前に、大きな危機が訪れる。

1560年、駿河・遠江・三河の三ヶ国を治めていた大大名、
今川義元が4万人もの兵を引き連れて、上洛を開始した。
この大軍団が、まず蹂躙しようとしたのが、
織田信長によって統一された、尾張であった。
尾張一国しか持たない織田信長と、
駿・遠・三の三ヶ国を持つ今川義元。
その戦力差は圧倒的であり、
織田軍が動員できた兵数は、わずか5000人ほどであったという。
この突然の侵攻に、織田家中は大いに浮き足立った。
家臣の意見は千々に乱れ、篭城を主張する者、
野戦を主張する者と様々であったが、
すでに今川軍によって、丸根砦・鷲津砦が陥落しており、
家中には絶望的な空気が漂っていた。

だが翌日、今川軍の情報を得た信長は、能「敦盛」を舞った後、
突如として出陣を号令する。
信長自ら、先頭を切って馬を駆り、熱田神宮に兵を集合させ、
ここで戦勝を祈願した信長は、
桶狭間で休憩している今川義元に向けて進軍、
折からの豪雨に紛れて奇襲を仕掛け、義元を討取った。

これが、一般的に知られている「桶狭間の戦い」である。
それまで「うつけ」などと呼ばれた信長の評価が、
この「桶狭間の戦い」を期に、大きく好転する。
まさに織田信長の名を、戦国の世に知らしめた戦いであった。

ところが最近、この良く知られた「桶狭間の戦い」が、
疑問視されるようになった。
一体、「桶狭間の戦い」のどこに、
疑問視される点があるのだろうか?

まず、戦場が違っている。
従来の説では、
山間の狭隘な地「桶狭間」が戦場であった、とされていたが、
現在では「田楽狭間」が戦場であった、ということになった。
もし、これが真実であるとすれば、
「桶狭間の戦い」という名前そのものが、否定されることになる。

さらに「田楽狭間」は、従来いわれていた様な
山間の狭隘な地ではなかった、とされている。
と、いうことは、普通に考えた場合、
相手からも信長の軍が見えていたはずであり、
それは同時に、信長の攻撃が「奇襲」であったということも、
否定されてしまうことになる。
そう、最近の説では「桶狭間」改め「田楽狭間」の戦いは
奇襲ではなく、ごく普通の遭遇戦であった、と考えられている。

……。
今回の新説は、かなりミョーな感じである。
「田楽狭間の戦い」の際、織田軍と今川軍の間には、
厳然とした兵力差があったことは確かなのだ。
そこを正面から戦いを挑み、これを打ち破ったのであれば、
それは堂々と誇るべきもののはずである。
それがどうして、「奇襲」によって勝ちを得たという風に、
歪めて伝えられたのか?

そもそも、冷静に考えると、今川軍の「上洛」ということ自体、
かなり怪しい話である。
戦国時代の「上洛」というのは、軍隊を引き連れて京都に入り、
足利将軍を保護することを指していた。
それをしたからって、どうなるんだ?と、思う人もいるだろうが、
一応形式上では、将軍は日本の支配者ということになっており、
これを保護するということは、
大きな政治的権力を手に入れることでもあった。
この「桶狭間の戦い」の際の今川義元、
後の「三方原の戦い」の際の武田信玄なども、
「上洛」を目指していたとされているが、
両者ともに途中で断念している。
実際に「上洛」を果たし、大きな権力を得た例として、
織田信長の「上洛」があるが、
後に信長と将軍が反目し合ったため、将軍から各地の守護大名に
信長追討命令が出されている。
こうしてみると、苦労して「上洛」してみても、
思ったほど絶対的な政治権力は、手に入らないものらしい。
武田信玄にしても、今川義元にしても、
京都までのルート上にある敵国については、
全て撃破して進んで行くつもりだったらしいが、
撃破した敵国の支配に成功しなければ、
本国からの補給線を確保することが出来ず、
実際に成功しえたか?と考えると、どうしても大きな疑問符がつく。
新しい説では、今川義元の行なった「それ」は「上洛」ではなく、
ごく普通の、隣国への軍事侵攻だった、ということになっている。

さて、例に従って、この「新説」に対し、
改めてメスを入れてみたいと思う。

まず、戦場が「桶狭間」ではなく、「田楽狭間」だったという点。
「桶狭間」については、現在でも名古屋市緑区に
「桶狭間古戦場跡」が残っている。
これに対し「田楽狭間」というのは、
現代では名前が残っておらず、どこが「田楽狭間」であったのか、
はっきりと確定していない。
司馬遼太郎の小説の中では、
現在の「桶狭間」から、東に1500mほどの地点、としており、
それとは別に、現在の愛知県豊明市栄町南館あたり、とする説もある。
さらには「桶狭間」と「田楽狭間」は、
呼び方が違うだけで、全く同じ場所であるという説まである。
つまり、現在残っている「桶狭間」と同等、
あるいはそこから数百mから、1500mほど離れた場所としか、
わからないのである。
……。
いや、場所も分かってないのに、
山間の狭隘な地じゃないなんて、どうしてわかるんだ?
と、突っ込みたくなる。
少なくとも「桶狭間」と同等の地である限りは、
そこは山間の狭隘な地だといわれても、反論できないのだ。
このため、現在でも「桶狭間」で織田軍の奇襲が行なわれた、
という説が生き残っているのである。
場所がはっきり分からない、というのは、
この新説の致命的な弱点だといえる。

さらに「奇襲」ではなかった、という点。
「奇襲」攻撃でなく、正面攻撃であったとすれば、
数で勝っていたと思われる今川軍が、
どうして敗れ去ってしまったのか?
実際の話、織田軍が動員できた兵数は5000人ほどとされ、
「桶狭間」へ攻撃を仕掛けたときには、
2000人ほどしか、兵はいなかったという。
2000人の兵の正面攻撃で、撃破されてしまったということは、
単純に考えて、今川義元の本陣には、
2000人以下の兵しかいなかった、と考えるしかないが、
4万人の兵士は一体どこに行ったのか?
先に書いたように、ここまでの戦いで、
丸根砦・鷲津砦をすでに落としており、
この日の戦いでも、砦を1つ落としている。
これらの砦には、500人の兵が配置されていたというから、
これを落とすために10倍の兵力、
5000人を差し向けたとしても15000人である。
手元には、25000人の兵が残ることになる。
これに2000人で正面からぶつかっては全滅は必至だ。
…実は、今川軍の4万人というのは、誇張された数字で、
実際には2万人ほどしかいなかった、とする説がある。
(後に信玄が「上洛」を試みたときも、
 その総兵力は25000人ほどであった)
これが正しいとすれば、砦攻略戦に15000人派遣していれば、
手元には5000人しか残らない。
織田軍が動員できたのが5000人だから、
これならば正面攻撃で撃破できる可能性がある。

だが、ここで冷静に考え直してみよう。
もし、本当に今川軍が「上洛」を狙っていたとすれば、
わざわざ織田軍の砦を攻撃するだろうか?
まだまだ、京都まで先は長い。
運んでいる食料だって限りがある。
どうしたって余計な戦いは避けて、
先を急ぎたいのではないだろうか?
だとすれば、小さな砦などにいちいち構わずに、
4万の兵数にものを言わせ、
尾張を堂々と通過してしまえばいいのである。
これをせずに、いちいち砦を落としていったということは、
今川軍の目的は「上洛」ではなく、
織田領の「侵略」だったのだろう。
だとすれば、「侵略」される側の織田軍が、
恐ろしい強さを発揮したとしても無理はない。
ここで敗れることは、彼らにとっての
たったひとつの領地を失うことである。
まさに「背水の陣」といえる。
だとすれば、同じ兵力でぶつかっても勝てる可能性は高いだろう。
ただ、今川軍の目的が「侵略」であった場合、
大将・今川義元の本陣が孤立していたというのは不自然だ。
すでに砦を落としていたなら、そこに本陣を構え、
これを起点にして兵を動かすのが常道だろう。
そういう意味では、「上洛」であれ「侵略」であれ、
今川軍の戦略はポイントがずれてしまっている。

はっきりいって、この新説は穴だらけだ。
かといって従来の説も、今川軍の動きを見る限りでは
はっきりとした目的が見えてこず、不自然な点がある。
(もちろん、今川軍の戦略がヘタクソだった可能性もあるが……)
だとすれば、定説、新説に続く、
第3の説が見出される可能性もある。

「桶狭間の戦い」には、そういう「隙」が多いようである。

Related Articles:

にほんブログ村 その他生活ブログ 雑学・豆知識へ
にほんブログ村

スポンサーリンク
スポンサーリンク

-歴史, 雑感、考察

Copyright© Falx blog 2 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.