雑学、雑感、切れ味鋭く、思いのままに。

Falx blog 2

未分類

宮本武蔵~趣味人として

投稿日:

ここまで、武蔵の剣についての事蹟を紹介してきた。

剣豪宮本武蔵を紹介する上で、剣の事蹟はなくてはならないものだ。

しかし、前回書いたように、武蔵は巌流島での決闘の後、

一切の決闘から、手を引いたといわれている。

この時、武蔵29歳。

武蔵が死んだのが、62歳といわれているので、

残りの33年間は、決闘と無縁の人生を送ってきたことになる。

その間、武蔵は何をしていたのか?

今回は、武蔵の剣以外の事蹟を追い、そこを埋めていきたい。

巌流島の決闘の後、武蔵は姫路にやってきている。

池田家に変わって、本多家が支配するようになってからのことである。

本多家の嫡男・忠刻に嫁した千姫に、十万石の化粧料が与えられ、

姫路城の西の丸に、豪壮華麗な櫓が建てられた。

いわゆる「千姫の化粧櫓」である。

姫路にやってきた武蔵は、この西の丸の造営にあたったといわれている。

さらに忠政・忠刻親子の剣術指南役として、この2人の側に仕えた。

「二刀流」の回で書いた、三宅軍兵衛との勝負はこのころのことである。

三宅軍兵衛は龍野城主・本多政朝に仕えていた、東軍流の達人だ。

すでに決闘から足を洗っていた武蔵は、この武芸者を軽くあしらっている。

この試合は、武蔵が二刀を使った、数少ない試合のひとつでもある。

……剣術指南役、というのは理解できる。

武蔵は剣豪だ。

父・新免無二之助が剣術指南役をしていたわけだから、

それを間近で見ていた武蔵に、同じことができないはずがない。

だが、西の丸の造営はどうだろうか?

確かに姫路城は、武将であった池田輝政が縄張りをし、作り上げた城だ。

そういう意味では、当時の武将には、少なくともある程度の築城技術が

あったと考えても、差し支えないだろう。

しかし、武蔵は一介の剣士である。

そんな彼が一体どこで、築城技術を身につけたのだろうか?

武蔵は明石でも、町割り(都市設計)や造園(庭作り)を命じられ、

これをやり遂げている。

かなり多彩な仕事ぶりだ。

元和3年(1617年)には、明石で町割りと造園を行なっているので、

それ以前、巌流島決戦のあった1612年から5年間のうちに、

この技術を身につけたと思われる。

現在でも、明石とその周辺には、武蔵が設計したといわれる庭園が残っている。

さらに武蔵は、絵画の世界においても、いくつもの優れた作品を残している。

そのもっとも有名なものが、「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」だ。

枯れ木に止まり、目を凝らす鵙(もず)と、その幹をゆっくり這い登る虫。

風に揺らぐ葉。

鵙と虫の、生と死の張りつめた緊張感を見事に描き表している。

この絵に関しては、次のような逸話がある。

後年、すでに名をなしていた画家の渡辺華山が、

市で売られている、一枚の絵に目を留めた。

その絵の素晴らしさに感動し、すぐに購入しようとしたが、

値段が高くて手が出せない。

しかし、この場で買い逃すと、もう二度と手に入らないだろう。

そう思った華山は、友人の役人に頼み込み、これを買ってもらった。

後に金を貯めた華山は、その友人から改めてこの絵を買い取った。

この渡辺華山を夢中にした絵こそが、宮本武蔵の「枯木鳴鵙図」であった。

この話を見る限り、すでに画家としての武蔵の評価は高かったようだ。

武蔵の作品は、この「枯木鳴鵙図」をはじめ、

他4点が重要文化財に指定されている。

そう考えた場合、むしろ芸術家としての武蔵の方が、

彼の本領だったのかもしれない。

武蔵は絵の他にも、書や鞍なども残しており、

その芸術的才能の多彩さをうかがわせる。

こうして武蔵の剣以外の事蹟を見たとき、

優秀な総合芸術家としての姿が、そこにある。

その数々の芸術的才能を目にしてみると、

むしろ剣の才能の方が異質のようにも感じられる。

が、本人はあくまで、剣士であることを本分とし、芸術家にはならなかった。

彼が後年書き記した書物を読むと、そのことがよくわかる。

播磨が生んだ、剣豪の最高峰・宮本武蔵。

彼の残した芸術、哲学を見ると、決して講談の主人公の枠に収まらない、

大人物の姿が見えてくる。

Related Articles:

にほんブログ村 その他生活ブログ 雑学・豆知識へ
にほんブログ村

スポンサーリンク
スポンサーリンク

-未分類

Copyright© Falx blog 2 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.