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野見宿禰~その2

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考古学、というより歴史というのは、ある意味、想像の学問だ。

言い伝えや、古文書、遺跡からの出土品などから過去を探り出す。

が、これはどこまでいっても正解が出せるものではなく、

どれだけそれっぽいことを言ってみても、結局は想像上の出来事にすぎない。

なんといっても出した解答が事実かどうか、答え合わせができないからだ。

極端な言い方をしてしまえば、考古学者や歴史学者は探偵のようなものだ。

過去の物証、文章等から何があったかを推理する。

2時間ドラマの探偵は、自分の推理が正しかったかどうか、

最後に崖の上で犯人の告白を聞いて、確かめることができるが、

考古学者や歴史学者はこれができない。

誰も、歴史の真実を告白してくれないからだ。

だから考古学や、歴史には絶対の正解がない。

だから重要視されるのは、整合性と説得力だ。

これがしっかりとしていれば、少々無茶なことを言ってもあまり叩かれない。

……はずだ。

だから同じ資料を取り上げても、その解釈によってでき上がるストーリーは

全く違うものになってしまう。

中には、この資料にすらとらわれず、自由な発想で過去を語る人もいる。

こういう人が述べるのが、いわゆる珍説、奇説と言われるものだ。

この珍説、奇説は想像力だけで出来上がっているものも多く、

聞いていて楽しいものが多い。

中には抱腹絶倒なものもある。

下手なお笑い芸人のギャグより、よほど笑わせてくれる。

ただ、個人的に言えば、資料を穿った見方で解釈するのは、あまり好きではない。

過去の文章から、隠された意味を勝手に読み取ったりするのは、

正直やってはいけないことだと思う。

が、今回はある程度自分の考えを曲げて、話を進めたい。

前回に続いて、野見宿禰の話である。

前回、自分は野見宿禰の出身地について、

出雲出身ということに疑問を投げかけた。

当時の大和政権と出雲勢力の、パワーバランスを考えてのことだ。

大和政権の垂仁天皇が、出雲在住の野見宿禰を呼び寄せることができたのか?

正直、厳しいと思う。

だとすれば、野見宿禰はどこから呼び寄せられたのか?

今回はそこの所に迫ってみる。

なお、『日本書紀』と『播磨国風土記』には、しっかりと出雲と書かれている。

今回はこれを、華麗に無視して話を進めていく。

舞台は大和国。

現在の奈良県だ。

垂仁天皇の時代、強力を誇り生死を問わない勝負を欲する、

当麻蹴速という男がいた。

この話を聞いた垂仁天皇は、出雲の国より野見宿禰を呼び寄せて相撲を取らせた。

その結果、蹴速は野見宿禰に腰を踏み折られて死んだ。

野見宿禰は蹴速の領地を与えられた。

これが『日本書紀』に書かれた、野見宿禰と当麻蹴速の相撲事始めだ。

……突っ込みどころが多い。

当麻蹴速の荒ぶりかたもすごいが、いちいちそんな男に対戦相手を用意する

垂仁天皇も正気とは思えない。

この命がけの勝負をさせるために、出雲から野見宿禰を呼びつける。

野見宿禰にしてみれば、たまったものではなかったはずだ。

こんなわけのわからない勝負のために、出雲から呼び出され、

勝負に負けると殺されてしまう。

結果的に勝負に勝って領地を得たが、当麻蹴速を殺すことになってしまった。

いくら調子に乗っている男とはいえ、何も殺すことはないではないか。

せめて痛い目にあわせて、懲らしめるくらいでいいのではないか。

腰を踏み折る、というのも大概だ。

踏み折った、ということはすでに相手はダウンしていたということだ。

いくら真剣勝負とはいえ、そこは垂仁天皇が「勝負あり」の判定を下しても

良かったはずだ。

ネチネチとケチを付けたが、今回はそれが目的ではない。

野見宿禰が出雲の出身でないのなら、どこの出身なのかということだ。

まず、垂仁天皇は野見宿禰の情報を、部下の長尾市という人物から聞いている。

ではこの長尾市は、どこで野見宿禰の情報を得たのか?

『日本書紀』を調べると、野見宿禰が呼び出される4年前、長尾市は

朝鮮からやってきた天日鉾に会うために、播磨に派遣されている。

『播磨国風土記』では天日鉾は伊和大神と戦ったと書かれていることから、

播磨の統治者と天日鉾の間でトラブルがあり、

それを解決するために派遣された、と考えると無理がない。

この後、天日鉾は垂仁天皇に会い、各地を転々とした後、但馬に住み着いた。

長尾市が野見宿禰の情報を得たのは、この時だったのではないか?

長尾市が播磨の統治者と天日鉾の争いを仲裁し、その際に野見宿禰の情報を

得たとするならば、その情報の提供者は播磨の統治者だろう。

異国人である天日鉾から、野見宿禰の情報を得られるとは考えられない。

そうなると播磨の統治者が、何故、野見宿禰の情報を知っているか?

もちろん、自分の統治している播磨の地に野見宿禰がいたからだ。

そう、野見宿禰は出雲の出身ではなく、播磨の出身だったのだ。

そう考えると、野見宿禰が垂仁天皇の無茶な呼び出しに応じた理由もわかる。

長尾市に天日鉾との争いを仲裁してもらった播磨の統治者は、

いわば長尾市への借りを返す意味で、野見宿禰を派遣したのだ。

では野見宿禰が播磨の出身だったとして、播磨のどこの出身だったか?

野見宿禰が土器師であったことを考えると、彼の墓の候補地のひとつ、

たつの市揖西町の土師地区という可能性がひとつ。

さらに「出雲」の言葉がヒントにはならないか?

野見宿禰の死で「たつの」という名前になったが、「たつの」と呼ばれる前は

「日下部の郷(くさかべのさと)」と呼ばれていた。

この「日下部の郷」の隣に「出水(いずみ)の郷」があったと、

『播磨国風土記』にある。

この「出水の郷」は、「日下部の郷」と土師地区がある「桑原の郷」の、

ちょうど間にあった。

と、なると野見宿禰はこの「出水」出身であり、それが間違って「出雲」と

伝えられたのではないか?

つまり野見宿禰は故郷に帰る途中で死んだのではなく、故郷で死んだのだ。

ずいぶんと無茶な理屈を展開した。

MMRも真っ青だ。

「な、なんだってー!」と、突っ込んでもらえるとありがたい。

先にも書いたが『日本書紀』にも『播磨国風土記』にも、

しっかり「出雲」と書いてある。

出雲地方には「野見」という地名があり、

野見宿禰はそこの出身だと言われている。

これはそこを都合良く無視した、勝手な推測だ。

昔、漫画かなにかで「優秀な学者の条件は、自分に都合の悪いデータを

いかに華麗にスルーできるかだ」という言葉を見た。

ある意味、至言かもしれないと思い、今回やってみた。

まあ、珍説・奇説のひとつとして受け取ってもらえると、幸いだ。

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