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扇子

更新日:

前回、ポータブルな涼具ということで、
「団扇」について書いた。
今回は「団扇」に並ぶ、もうひとつのポータブル涼具、
「扇子」について書いていく。

現在、我々が生活している中で、
「扇子」を見かけるのは、かなりかしこまった場所が多い。
たとえば、能や歌舞伎などの古典芸能の舞台や、
日本舞踊や茶席などの、和装で出席する催し物、
さらには結婚式などの小物として、である。
普段の生活で、何かで自分を「扇ぎたい」となった場合、
まずチョイスされるのは「団扇」である。
こういう風潮を踏まえて、前回、
「団扇=庶民的」、「扇子=高級」という風に書いた。

扇子も団扇も、持ち運びの出来る涼具には違いない。
だが現在、この2つの間には明らかな格差のようなものが
存在してしまっている。
パタパタと扇いで、一時の涼を得るという点では、
「扇子」も「団扇」も全く変わらない。
一見すると同じようなこの2つの涼具には、
どのような違いがあるのだろうか?

実は「扇子」も「団扇」も、
同じようにパタパタと扇ぐことから、
同じような来歴を持っていると思われるかも知れないが、
その歴史には大きな違いが存在している。
前回、書いたように、「団扇」は紀元前2〜3世紀ごろには、
すでに世界の各地で使われていた。
(古代中国・周の軍師、諸葛亮の使っていた「羽扇」や、
 古代エジプトの壁画に描かれている「羽根扇」などである)
これらには、本来の「扇ぐ」という使用法の他にも
高くかざして日陰を作るとか、口元を覆い隠す、
さらにはこれを持つことによって、
自分が権力を持っていることを周りに誇示する
「威儀」を目的としていたのである。
だが、そのように様々な使用目的があるとはいえ、
あくまでも元々は扇いで涼を得るための「涼具」であり、
その目的で作られていたことは、間違いがない。

では「扇子」はどうなのか?

実は「扇子」が初めて作られたのは、
「団扇」よりもずっと遅く、
平安時代の初期のことである。
そう、平安時代の初期としていることからも分かるように、
「扇子」は日本で作り出されたものなのである。
元々は数枚の木簡を束ね、片端を綴じて使用したのが
「扇子」の始まりであった。
木簡というのは、紙がまだまだ高級品で
一般的でなかったころ、
紙の代わりに使われていた薄い木の板である。
これに筆と墨を使い、文字を書き込んでいた。
現在でも奈良時代などの遺跡からは、
当時の木簡が発見されることがあり、
それが貴重な歴史資料となっているのだが、
初期の「扇子」は、この木簡を束ねたものだったのである。
つまり当時のメモ用紙であった木簡を束ねているので、
一種のメモ帳であったと考えることも出来る。
当然、扇いで風を起こすというよりは、
様々なことを書き込んでおくことこそが、最大の目的であった。
これを「檜扇(ひおうぎ)」と呼ぶ。
「檜」という字が使われていることから考えると、
檜の板を束ねたものだったのだろう。
当時は主に男性が公の場で使っていたが、
やがてこの「檜扇」に絵が描かれるようになり、
そのころから装飾品の1つとして、
女性も使うようになっていった。
その後、竹や木の骨組みに、
片面だけ紙を貼付けた「扇子」が作られる。
これが現在の「扇子」の元となっている。
「藍嚢鈔(あいのうしょう)」という本には、
「扇は日本にて作り始めるなり。
 こうもりを見て作ると云う。
 故にその形、こうもりに似るという。
 これをもって扇を、蝙蝠(かわほり)という」
と書かれている。
このときに作られた「紙扇」を、
「蝙蝠扇(かわほりせん)」と呼ぶ。
この「蝙蝠扇」は、「檜扇」のように
メモ帳としての役目を持ったものではなく、
「団扇」と同じように風を起こし、
涼を得るのを目的としたものであった。
故に、この「蝙蝠扇」が作られることによって、
初めて、「扇子」が扇ぐものになったと
考えられることが多いのだが、
これは多分間違いだと思う。
おそらく「檜扇」の時点で、これをパタパタと扇ぎ、
涼を得ることを行なっていたのではないだろうか?
現代の学生が、下敷きなどでパタパタと扇ぎ
涼を得るのと同じことである。
平安時代、都である「平安京」があったのは京都である。
盆地地形の京都は、現代でも酷暑で知られている。
当然、平安時代においても、夏は相当に暑かったに違いない。
そんな折、手元に風を起こすのにちょうど良いものがあれば、
それをパタパタと扇ぎ、風を起こして涼をとろうというのは、
ごく自然な成り行きだろう。
酷暑の平安京において、
「扇子」は本来のメモ帳としての役割ではなく、
風を起こす「涼具」としての役割が求められるようになり、
やがて風を起こすことに特化した「蝙蝠扇」が
作り出されたのだと考えられる。

「団扇」と同じように、パタパタと扇いで風を起こし、
涼を得るための「涼具」となった「扇子」だが、
「扇子」には「団扇」と違う、大きな利点があった。
それが、「折り畳める」ということである。
一見なんでもない、しかし携帯する上では
これ以上ない利点を持った「扇子」は、
鎌倉時代に中国へと渡ることになる。
中国で、片面にしか貼られていなかった紙が
両面に貼られるようになり、
室町時代に日本へと逆輸入される。
鎌倉時代までは、貴族や神職しか
使うことの許されなかった「扇子」だが、
このころになると、庶民が使うことが許されるようになった。
能や演劇、茶道に用いられるようになったのは、
このころのことである。
江戸時代に入り、庶民の必需品となった「扇子」は
重要な産業の1つになっていくのである。

さて、中国に渡った「扇子」の話に戻る。
中国でも人気を博した「扇子」は、
両面に紙を貼るという進化を遂げ、
日本に逆輸入されることになったが、
さらに大航海時代になり、
中国からヨーロッパへと伝えられることになる。
ヨーロッパでは、紙の代わりに絹を用いたり、
レースや孔雀の羽を用いたものも、作られるようになった。
17世紀のパリには「扇子」を扱う店が
150店もあったという。
映画やマンガなど、中世のフランスを描いたものの中で、
豪華な扇を持った貴族の女性が出てくることがあるが、
あの豪華な扇にしても、日本で作り出された「扇子」が
中国を経てヨーロッパへ渡ったものであり、
全ての原型は、日本の「扇子」にあったのである。

明治時代に入り、「団扇」が一種の広告ツールとしての
役割を持つようになった後も、
「扇子」にはそのような役割は回ってこなかった。
これは、「扇子」が能や演劇、茶道などといった
格式のあるものに使われることによって、
一種のセレモニーアイテムとしての性格を
持たされたためだろう。
そういった性格を持つが故に、大衆化はしても庶民化はせず、
「団扇」ほどに生活に密着したアイテムになることはなかった。
夏、暑い最中に「団扇」で涼を取ることは珍しくないが、
「扇子」で涼を取ると、
どことなく気取っているように思われてしまう。
結果として、「扇子」はやや使いにくいことになってしまった。

前回、うちには20枚ほどの「団扇」がある、と書いたが、
「扇子」の方はかなり怪しいものを含めて4本しかなかった。
これが全てを表しているとも言えないが、
やはり「団扇」に比べると、普及率が低いのは確かである。
さすがに自分も、これを持ち出して、
公共の場で何気なく使うのには、かなり抵抗がある。
(もちろん、時と場所を考えてということで、
 自分が「そういう」シーンには縁がないということも
 踏まえての話ではあるが……)

日本生まれの「扇子」を、
日本で使うべき機会が減っているというのは、
やはり、なんとも寂しいものだ。

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