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歴史 雑感、考察

アメノヒボコ

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かつて、歴史には黒の部分と、白の部分、
さらにグレーの部分がある、というようなことを書いた。

これを詳しく説明すると、
「白」の部分というのは、人の歴史である。
そんなの当たり前じゃないか、と思われるかもしれないが、
歴史の中には、人ではないものが出てくる部分がある。
日本の歴史でいえば、イザナギとかアマテラスなんてのが
出てくる辺りがこれにあたる。
いわゆる「神話」の時代である。
目や鼻から神様の子供が生まれたり、
洞窟の中に女神が引きこもると、
世界が闇に包まれたりするという、
現実には考えられないストーリーが展開していく。
明らかに、後代に「創作」されたものであり、
現実の歴史とは乖離した部分である。
歴史の中のこういう部分を、「黒」の部分とした。

「グレー」というのは、
人と神が入り混じっている部分である。
そんな部分があるの?と思われるかもしれないが、
少なくとも日本の歴史においては、
間違いなく「そういう」部分が存在している。
今回のテーマである「アメノヒボコ」も、
そういう「グレー」な存在なのである。

アメノヒボコ。
漢字で書くと「天之日矛」「天日槍」となる。
彼は、「古事記」「日本書紀」「播磨国風土記」に
その名前が記されている。
彼が「グレー」な存在の理由は、
記録された書物によって、
彼は「神」でも「人」でもあるからである。
この3つの書物の中、「古事記」と「日本書紀」は、
彼を人間、朝鮮半島の「新羅」の人であるとしている。
特に「日本書紀」では、
彼を新羅国の王子であるとしている。
「古事記」においては、
彼が王子であることには言及されてないが、
その記述から、ある程度身分の高い人間であることを
伺い知ることが出来る。
これに対して「播磨国風土記」では、
彼を朝鮮半島(?)から渡来してきた「神」としている。
揖保川河口に現れた彼は、播磨国の神である
アシハラシコオ(オオナムチ、オオクニヌシと
同一視されている神)と争いを起こし、
その結果、彼は播磨を去り、但馬へと移っている。

この3つの書物のうち、
もっとも古いものが「古事記」だ。
712年に完成した「古事記」は、
我が国最初の歴史書である。
「日本書紀」は、これに遅れること8年、
720年に完成した歴史書である。
何故、そんなに間も置かず、
2つの歴史書を書いたりしたんだ?
と、疑問に思う人もいるかもしれない。
2つの歴史書の特徴として、
「古事記」はストーリー性、物語性が重視されており、
普通に読んだ限りでは、歴史書というよりも、
おとぎ話を集めたものに近い。
これに対し「日本書紀」は、
あくまでも歴史書という点に
重きをおいて執筆されており、
その内容は記録然としたものになっている。
恐らくは、中国などに習って、
我が国最初の歴史書「古事記」を作ってみたものの、
あまりに中国の「それ」と違ったものが
出来てしまったため、
改めて作り直したのが「日本書紀」なのではないだろうか。
「播磨国風土記」は、713年に全国の令制国に出された
「指定する国内情報を記した「報告書」を提出せよ」
という命令によって作製されたものである。
この命令が出されたのは713年のことであるが、
それぞれの令制国から、報告書である「風土記」が
提出された時期については、
国によって大きな開きがある。
「播磨国風土記」は、
その中でも、もっとも早く提出されたものであり、
715年あたりに完成したのではないかと考えられている。

そうなると、アメノヒボコについて記された3つの書物の
成立順は「古事記」→「播磨国風土記」→「日本書紀」
ということになる。
つまり「人」→「神」→「人」となっているわけだ。
「古事記」は、中央政府に伝わってきた情報、
「播磨国風土記」は、地方に伝えられてきた情報、
「日本書紀」は、
「古事記」と「播磨国風土記」の情報を照らし合わせ、
合理的にまとめられたものである可能性が高い。
それぞれ、アメノヒボコについて、
どのように記載してあるのだろうか?

極めて事務的に書かれているのが「日本書紀」だ。
垂仁天皇の時代、日本にやってきた
新羅の王子アメノヒボコが、播磨、近江、若狭の国を経て
但馬の国に至り、そこに定住し結婚したと書かれている。

「播磨国風土記」では、
異国からやってきた「渡来の神」として描かれている。
当時、播磨の国を支配していた「神」アシハラシコオと
播磨を舞台にして争った記録が残っている。
国争いの末、但馬へと移っていったとされる。

「古事記」では、
アメノヒボコの朝鮮時代も、記されている。
その内容は、まるでおとぎ話のように荒唐無稽なもので、
不思議な「赤い玉」から生まれたアメノヒボコの妻が、
夫婦間の諍いの果てに日本へと逃げ出し、
これを追って、アメノヒボコが日本へとやってくる。
結局、彼は妻とは会えず、そのまま但馬に定住し、
そこで新たな妻を迎えたことになっている。

それぞれ記述には、かなりの違いがあるが、
全てに共通しているのは、
・朝鮮(異国)からやってきていること
・但馬へと定住していること
である。
「日本書紀」と「播磨国風土記」では、
まず播磨へやってきている点も共通している。

但馬へと定住したアメノヒボコは、後に神として祀られ、
彼の祀られた出石神社は、但馬国の一の宮になっている。
これは、彼がしっかりと但馬の地に根を下ろし、
但馬の人々に受け入れられたという
何よりの証拠だろう。
このアメノヒボコの子孫にあたる人物として、
お菓子の神様、菓祖神・田道間守や、
15代・応神天皇の母、神功皇后などがいる。

アメノヒボコは、古代近畿地方の各地にその伝説を残し、
やがて但馬の地にて「神」として祀られるに至った。
神道の「神」の中で、
外国人が由来となっているのは、彼だけである。
(もっとも、アメノヒボコという名前は、
 完全に和名である。
 彼が日本にやってきた本当の理由は明らかでないが、
 彼が日本に帰化した際に、
 日本風の名前を与えられたか、
 自ら名乗ったのだと思われる)

ただ、「播磨国風土記」の記述だけを見れば、
彼は「侵略者」というスタンスで書かれている。
これはアメノヒボコとの国争いに勝った、
アシハラシコオの子孫たちが、
「風土記」を書いたためだろう。

もし、アメノヒボコが国争いに勝っていたら……。
そういう「if」を考えてみるのも、
歴史の楽しさである。

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