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黒田官兵衛~官兵衛を取り巻く人々

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ここまで、3回にわたって黒田官兵衛について書いてきた。

今回はちょっと視点を変えて、官兵衛を取り巻く人々、

彼の家族について書いていきたい。

まず取り上げるのが、彼の祖父・黒田重隆だ。

彼の代に黒田一族は、播磨にやってきた。

重隆の父・高政の時に備前福岡に移り住んでいるので、

わずか1代で備前福岡を離れたことになる。

姫路の地にやってきた重隆は、まず、広峰神社に身を寄せ、

家伝の目薬を作り、これを販売することで財を成した。

ただ、目薬の材料となる「メグスリノキ」が広峰山には自生しておらず、

浜手にて栽培していたという。

この「メグスリノキ」の樹皮を干したものを、煎じて使う。

そのまま経口で摂取しても、薬効があり、もちろん目薬として使うこともできる。

この後、重隆は龍野の赤松政秀に仕えるが、

すぐに御着の小寺則職に主を変えている。

この重隆に従って、小寺氏に仕えたのが重隆の息子の職隆だ。

彼は黒田官兵衛の父にあたる。

父である重隆同様、御着城主の小寺政職に仕えた。

政職は則職の息子である。

彼は小寺政職の養女を娶って、小寺家の家老職についている。

それだけではなく、小寺の姓を貰い、黒田一族は小寺姓を名乗ることになる。

さらに彼の代で、姫路城の城代となり、その近辺を治めている。

このころになっても、家伝の目薬による商売を続けており、

それによって御着とは別の、独自の家臣団を形成していった。

やがて息子である官兵衛が生まれる。

官兵衛の他にも、娘が1人、いたことがわかっている。

これは官兵衛の妹と思われる。

彼女は室津の浦上政宗の息子・清宗に嫁ぐが、婚礼の夜、

龍野の赤松政秀に攻められて、浦上親子共々殺害される。

このことにより、赤松氏との対立が生まれた。

この事件が、3月3日に起こったため、以降、室津では

3月3日にひな祭りをしなくなり、8月1日にひな祭りを行うようになった。

これを「八朔のひな祭り」といい、現在も続いている。

職隆は官兵衛に家督をゆずると、国府山城に隠居するが、

官兵衛が荒木村重の説得のため、伊丹城に赴き、捕らわれの身となると、

一時的に当主に戻り、一族の危機をしのいだ。

この一族は職隆・官兵衛といい、官兵衛・長政といい、

父子の連携ぶりが目立つ。

親子でも平気で殺しあう戦国時代においては、珍しい例だ。

他の一族にはない、この一族の特徴かもしれない。

次に取り上げるのは、官兵衛の妻、光(てる)の方だ。

官兵衛の特徴のひとつとして、妻を1人しか迎えず、

側室も持たなかったことがある。

これは戦国大名としては、異例であった。

そのたった1人の妻が、この光の方だった。

彼女は、志方城主・櫛橋伊定の娘で、主君・小寺政職の媒酌で官兵衛に嫁いだ。

婚礼当時、官兵衛22歳、光の方17歳であった。

実はこの夫婦、いわゆるノミの夫婦で、夫・官兵衛が小柄だったのに対し、

妻・光の方は背が高く、がっしりとした体格であったという。

これを信じるならば、大河ドラマ「軍師官兵衛」は配役の時点で、

大きなミスをやらかしていることになる。

彼女の人生は、ちょうど官兵衛と裏表の関係だ。

結婚後、わずか1年ほどで、嫡男・長政を生んでいる。

戦国武将の妻としては、最高の滑り出しといえるだろう。

だが、官兵衛の人生にあわせるようにして、大ピンチがやってくる。

荒木村重の説得に向かった夫・官兵衛が、伊丹城にて捕われてしまうのだ。

その時、息子の長政も人質として信長の元に送られており、

彼女はこの希望の見いだせない期間を、義父・職隆とともに姫路の地で乗り切る。

1年後、官兵衛はボロボロの状態で助け出され、息子・長政も

竹中半兵衛によって保護されていて、無事に彼女の元に帰ってくる。

やがて信長が死に、秀吉が権力を握ると、彼女は大阪へと移る。

これは部下の妻子を手元に置く、一種の人質だ。

賤ヶ岳の戦いを終え、いよいよ秀吉は天下取りに動き出す。

このころ、ひとつの変化が訪れる。

夫である官兵衛が、キリシタン大名である高山右近、小西行長らの勧めで

キリスト教に入信する。

さらにまわりの人間にも、入信を勧めるようになる。

実際それに従うようにして、嫡男の長政も入信している。

だが、官兵衛の妻である光の方は、入信しなかった。

官兵衛もまた、そんな彼女を無理に入信させるようなことはなかった。

やがて四国征伐、九州征伐が終わり、官兵衛は豊前六郡を与えられる。

もちろん人質である光の方は、領国である豊前にいくこともなく、

大阪に居続けている。

このころから夫・官兵衛と、その主である秀吉の関係がおかしくなり始める。

これが決定的なものになったのは、1592年に始まった朝鮮の役でのことだ。

この朝鮮の役には、夫・官兵衛と嫡男・長政が従軍していたのだが、

官兵衛が石田三成に讒言されて、秀吉の怒りをかってしまう。

さらによくないことが続く。

当時、官兵衛の次男・熊之助が豊前の領国で留守居をしていたのだが、

父と兄が渡海すると、じっとしておれず、同い年の家臣と一緒に、

陣中見舞いと称して船を出し、朝鮮に渡ろうとしたのだ。

そして関門海峡を越えた所で、嵐に逢い遭難、そのまま亡くなってしまう。

思わぬ次男の事故死であった。

結局、官兵衛と長政は生きて帰ってくるのだが、この朝鮮の役によって、

大事な息子を1人失ってしまう。

痛恨の事故であった。

そして1600年、すでに秀吉はなく、天下には不穏な空気が流れはじめていた。

徳川家康と五奉行筆頭・石田三成の間が一触即発の状態となり、

いつ戦が始まっても、おかしくない状況になった。

そして6月、上杉討伐のため、主だった武将たちが大阪を離れると、

石田三成の配下が、諸大名の妻子を人質に取るべく、大阪の町を駆け回った。

光の方は、長政の妻・ねね姫と一緒に大阪を脱出、

領国である中津へと、逃げ延びることに成功する。

息子・長政は家康について関ヶ原の合戦を戦い、

当時、中津で隠居していた官兵衛は、軍を率いて九州中を戦ってまわった。

やがて関ヶ原の合戦も一日で終わり、天下は家康の手に落ちた。

関ヶ原での戦いぶりが認められ、長政は筑前名島(福岡)に、

52万石を与えられる。

この時、中津に4ヶ月ほどいた間に、光の方は浄土宗に入信している。

官兵衛、長政はもちろん、まわりにはキリシタンが多かったはずだが、

彼女が選んだのはキリスト教ではなく、仏教、浄土宗であった。

これは中津から出船して不慮の死を遂げた次男、熊之助の菩提を弔う意味が

あったであろうことは、容易に想像できる。

彼女は残りの余生を、新たな領地となった筑前で過ごしている。

体格も良かったせいか、彼女は健康で、官兵衛の死後23年、

息子・長政の死後、さらに4年も生きて、75歳で死んだ。

次に嫡男・長政について書くつもりだったが、妻・光の方の生涯を書く中で

充分に書いてしまった。

ほとんど同じようなことを、もう一度書くのも憚られるので、

長政に関してはこの際、割愛する。

今回は官兵衛を取り巻く人々、ということで彼の家族について書いた。

次回は、「播磨灘物語」において黒田官兵衛を世に知らしめた小説家、

司馬遼太郎と黒田官兵衛について書き、

これを、5回にわたった黒田官兵衛シリーズの締めとしたい。

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