雑学、雑感、切れ味鋭く、思いのままに。

Falx blog 2

未分類

黒田官兵衛~キリシタン

投稿日:

キリシタンという言葉には、どうも不遇なイメージがつきまとう。

言葉としては、たんに「キリスト教徒」という意味なのだが、

我が国の歴史上、どうもキリシタン=迫害というイメージが強い。

実際、そのイメージに間違いはない。

踏み絵、殉教、島原の乱。

これらは、悲惨極まる迫害の歴史だ。

しかし、ここに挙げたことのほとんどは、江戸時代に入ってからのことで、

キリスト教が日本に入ってきてすぐのころは、そこまでの迫害は無かった。

それどころか、一般大衆だけでなく、大名身分のものでも

わりと気軽にキリシタンになっていた。

いわゆるキリシタン大名である。

そして、黒田官兵衛もまた、キリシタンであった。

今回は、官兵衛のキリシタンという部分に焦点を当ててみたい。

日本にキリスト教が伝わったのは、1549年のことである。

当時の日本は、戦国時代のまっただ中であった。

このときやってきたのが、教科書でも有名な、フランシスコ=ザビエルである。

イエズス会の創立メンバーでもあった彼は、布教のためアジアまでやってきた。

彼が、日本にキリスト教をもたらした。

この時、黒田官兵衛4歳。

彼が入信する36年前のことだ。

宣教師たちは、日本人と衝突しながらも布教を続け、

時の権力者・織田信長の庇護を受けることにも成功し、

順調に信者を増やしていった。

もちろん、純粋な信仰心からキリスト教に入信する者も多かったが、

南蛮人である宣教師たちがもたらす、技術や知識を目的とした入信もあった。

宣教師たちも、そういう需要を感じとり、うまくそれを利用することによって

信者を増やし、勢力を伸ばしていった。

そして1585年、官兵衛は高山右近や小西行長、蒲生氏郷などに勧められ、

40歳でキリスト教に入信する。

年表でいえば、賤ヶ岳の戦いが起こった2年後であり、

秀吉が関白になった年でもある。

まさに、その勢いが一番強かったころだ。

当時の宣教師たちの記録、「イエズス会日本年報」の1585年版に、

羽柴筑前守(秀吉)の顧問である黒田官兵衛が、

洗礼を受けたことが書かれている。

洗礼名はシメオン。

そこには、官兵衛がその才能により尊重されていること、

播磨地方において絶大な力を持っていること、

さらに、まわりの人間に、キリスト教を勧めていることが書かれている。

記録を見る限りでは、熱心な信者だったようだ。

面白い事実がある。

官兵衛はその生涯で、妻を1人しか持たなかった。

これは戦国時代の武将階級の人間としては、かなり珍しいことだった。

キリスト教では一夫一婦が決まりなので、

官兵衛のそれを、キリスト教の影響であるとする資料も多い。

大笑いだ。

先に書いた通り、官兵衛は40歳で入信している。

それまでも、妻を1人しか持たなかったのだから、

キリスト教の影響でそうなった、と考える方がどうかしている。

もともと官兵衛は、一夫一婦の考えを持っていたのだろう。

側室を何人も持っている武将たちの中にあって、この官兵衛の主義は、

かなり浮いていたに違いない。

だからキリスト教に出会った時、すぐその教えに同調できたのではないか。

その教えが自分に合っているので入信した、というのが真実だろう。

キリシタンになった官兵衛は、まわりにキリスト教を勧めているが、

無理強いしている様子は、全くない。

何故なら、彼にとって一番身近な存在である妻・光(てる)が、

キリスト教に入信していないからである。

恐らく「信教の自由」という考え方を、持っていたのではないだろうか?

当時のキリスト教には、問題もあった。

キリスト教は一神教であるため、神仏の偶像を認めず、

大名がキリシタンに入信した国では、寺社仏閣の打ち壊しが行なわれた。

これが、秀吉が禁教令を出すきっかけになる。

官兵衛が入信してから、わずか2年後のことだ。

しかし官兵衛自身には、寺社仏閣を破壊するような考えはなかった。

実際、彼の妻が浄土宗に入信したときも、これを認めている。

筑前福岡に国替えになってからも、寺社仏閣を庇護し、なおかつ追われる

キリシタンたちを保護した。

官兵衛としては、キリシタンも、それ以外の宗教も、

併存しても、一向に構わなかったらしい。

この点、非常に現代人的な感覚である。

やがて1604年、官兵衛は京都伏見の地で永眠する。

官兵衛は亡くなる直前、枕元に宣教師を呼んでくれと頼んだが、

さすがにその状況・時代背景では、かなわなかった。

後に筑前福岡に戻ってから、宣教師によって葬儀が執り行われた。

官兵衛は最期まで、キリシタンとして死んだ。

ここまでみてきたように、確かに官兵衛はキリスト教に入信して

キリシタンになったが、その宗教観はどこまでも自由で、

決して偏執狂的になることはなかった。

他者の「信教の自由」を侵さず、そして自らも「信教の自由」を貫いた。

黒田官兵衛は、当時としては驚くほど先進的な宗教観を持っていたのだ。

今回は、官兵衛がキリシタンだったという点に注目し、

その宗教観について掘り下げてみた。

次回は、官兵衛を取り巻いていた、身内、家族というものについて書いてみたい。

Related Articles:

にほんブログ村 その他生活ブログ 雑学・豆知識へ
にほんブログ村

スポンサーリンク
スポンサーリンク

-未分類

Copyright© Falx blog 2 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.