幸福、という言葉がある。
本当はいい意味の言葉のはずなのだが、
この言葉には、うさんくささを感じる人もいるだろう。
その原因の大半は、宗教がらみだ。
特に怪しい新興宗教などは、やたらに「幸福」という言葉を使ったりする。
同じように「幸せ」という言葉も使われるので、
幸福になれる、幸せになれる、などという言葉には、
そこはかとない、うさんくささを感じてしまうのだ。
言葉自体には、何の罪もないので、これは一種の風評被害と言えるかもしれない。
今、「幸福」がうさんくさく、「幸せ」もうさんくさいと書いた。
では「福」だけではどうだろう。
不思議と、うさんくささが少ない。
では「福」とは一体なんなのか?
国語辞典で調べて見ると、「さいわい・しあわせ」とある。
「しあわせ」で調べてみると、「幸福」となる。
「さいわい」で調べてみると、やはり「幸福」になる。
では「幸福」で調べてみると、「さいわい・しあわせ」になる。
……。
正直いってよくわからない。
どうも、堂々巡りをしているようでもあるし、
たらい回しにされているようにも感じる。
どうも、言葉が必死に責任の押し付け合いをしているような、不思議な感じだ。
ここはちょっと独自の解釈をしたい。
英語で意味を表現してみるのだ。
「幸せ」を「Happy」、「福」は「Lucky」としてみる。
「幸せ」と「福」のニュアンス的な違いが表現できているだろうか?
今回はこの「福」の神、恵比寿神について書いていく。
「恵比寿」というのは、七福神で有名だ。
しかし七福神は、縁起のいい神様を宗教・宗派をとわずに集めたもので、
七神それぞれに出自というものがある。
七福神の中で、唯一日本出身の神様が恵比寿神だ。
つまり神道の神様ということになる。
恵比寿神の誕生は、日本神話の中に描かれている。
というのも、恵比寿神の出自は由緒正しく、
国生みの神イザナギ・イザナミの間に生まれた最初の神なのだ。
まさにサラブレッドと言っていい。
しかしこのサラブレッドには、生まれて早々に過酷な運命が待っていた。
生まれてから3年経っても足が立たなかったために、
両親から海に流され、捨てられてしまったのだ。
イザナギ・イザナミが国生みをしたといわれるのが、オノゴロ島。
現在の淡路島だと言われている。
オノゴロ島から流された幼い恵比寿神は、西宮の浜に流れ着く。
ここで彼は、神として祀られることになる。
彼を祀った神社こそが、西宮神社。
恵比寿神を祀る神社の総本山である。
この誕生伝説を見ると、恵比寿神自身はかなり不幸だ。
3歳になっても足が立たなかったのは、彼自身に原因があるのではなく、
イザナギ・イザナミが神産みの儀式を間違ったからだ。
それなのに、全く容赦なく海に流されてしまっている。
3歳児に対して、非情すぎる措置だ。
しかし彼はそんな不幸な出自にメゲることもなく、
「福の神」として人々に「福」を与え続けているのだ。
恵比寿(えびす)というのは、蛭子とも書く。
そして蛭子はヒルコとも読める。
つまり恵比寿=ヒルコとなる。
ここでちょっと話は飛ぶが、日本神話の場合、
神は1人だけ産みだされることは少なく、大方の場合、
男女1セットで生み出される。
イザナギ・イザナミがそのもっともわかりやすい例だ。
その場合、男神には彦(ひこ)、女神には媛(ひめ)とつけられることが多い。
つまりヒルコの場合、ヒル+彦でヒルコとなっている。
そして彼と対になる女神の場合は、ヒル+媛でヒルヒメ、あるいはヒルメとなる。
ヒルヒメ、あるいはヒルメの名を持つ女神がいるのか?
いるのだ。
オオヒルメノムチ、つまり天照大神だ。
つまり日本神話の最高神こそが、彼の対の存在だったのだ。
そう考えると、恵比寿神を見る目が少し変わる。
日本神話の最高神として生み出されながら、足の障害によって
不遇にも海に流されたヒルコ。
しかし彼は、そんな境遇を嘆くこともなく、人々に「福」を与え続けた。
彼の双子の妹とも言えるヒルメが、最高神として祀られているのを見ながら
彼は何を思ったのか?
もっともヒルコ誕生神話にも、天照誕生神話にも、
そういう関係性を示す部分はない。
ただ、その名前の中に、その関係の名残が残っているのみだ。
現在、西宮神社では、1月10日に「十日えびす」の開門神事という、
福男選びが行なわれている。
午前6時の開門と同時に、本殿目指して参拝者達が境内を駆け抜ける、
西宮神社の名物神事だ。
最近ではTVでも中継されていたりする。
その中で、昨年の福男にインタビューをしているのだが、
それを聞く限りでは、実は福男達はそれほど「福」がきている様子がない。
この恵比寿神の出自を考えれば、さもありなんとも思う。
境内の中を、健康な足で走って恵比寿神に見せつけているのだ。
足が悪くて海に流された彼にとっては、心の傷をつつかれているようなものだ。
決して、いい気分はしないだろう。
恵比寿神は、こう思っているのではあるまいか。
別段、早く走ってこなくともいい。
たとえ、足が悪かろうと、杖をついていようと、満足に走れなかろうと、
仮に車いすであろうと、人に支えてもらいながらであろうと、
自分の足で、がんばって自分の前に立った者には、「福」を授けるよと。
開門神事で、目をギラギラさせて走っている氏子達の顔と、
福々しく穏やかに笑っている恵比寿神の顔は、あまりに違いすぎる。
不幸な過去にとらわれず、穏やかに「福」を与え続ける。
むしろその姿に、学ぶべきことは多い。
それこそが、恵比寿神が与えてくれる、本当の「福」かもしれない。