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千石船~その1

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人間が作り出した乗り物の中で、圧倒的に長い歴史を誇るのは船である。

極端な話、人が倒木にまたがり、

手で水をかいて進めば、これで原始的な船になる。

ここから、船の歴史は始まったといえる。

それ以降、人間が作り出した乗り物は数多あるが、

車も、飛行機も、列車も、船の歴史の長さには到底及ばない。

日本の船の歴史は、丸木舟から始まる。

この丸木舟を改造し、改良し続けて、使ってきた。

それこそ、西洋船の技術が、明治維新により入ってくるまでである。

その最終形態とも言えるものが、「千石船」だ。

今回は、この「千石船」について書いていく。

「千石船」といったが、これはあくまでも通り名で、

正式には弁才船(べざいせん)という。

「千石船」というのは、千石の積載量のある弁才船ということになる。

船の積載量が、石(こく)であるところが、いかにも日本らしい。

1石は40貫、1貫は3.75kgだ。

そうすると1石は150kg、1000石は150000kgということになる。

つまり千石船には、150tの積載量があったことになる。

弁才船は、安土桃山時代から明治時代にかけて使用された、和製の輸送船である。

有名な北前船、菱垣廻船、樽廻船など、すべて弁才船である。

北前船は日本海をまわって蝦夷地(北海道)と大阪を、

菱垣廻船は、いろいろな荷物を積んで、江戸と大阪の間を、

樽廻船は、日本酒をはじめとした、樽に入った荷物を江戸と大阪の間を、

それぞれ航行していた。

菱垣廻船に菱垣(ひがき)と名前がついているのは、

両舷にもうけられた垣立に、木製の菱組格子の装飾をしていたためだ。

これらの船も、構造には大きな違いがない。

先に書いた通り、和船の元となっているのは丸木舟だ。

これに改造と改良を加え続けてきた最終形態が、千石船だ。

ではどういう流れで、丸木舟は千石船になっていったのか?

丸木舟の構造については、改めて言うまでもないことだが、

丸太を半分に割り、その割った面の中央部を、削っていけばできる。

さらに丸太の外皮面をととのえ、舳先にあたる部分を尖らせれば、

グンと船っぽくなる。

この丸木舟を、大きくするにはどうすればいいか?

もちろん、より長くて大きな丸太を使えばいい。

しかしこの方法には限界がある。

そんなに大きな丸太は、手に入れるのも難しいし、運搬も大変だ。

それに一定以上には、大きくならない。

では、どうするか?

簡単だ、船のまわりに板を貼付けて、船の排水量を大きくすればいい。

イメージしにくいかもしれない。

枡のような、上部の開いた、木の箱をイメージしてもらうとよい。

船の排水量を大きくするということは、

この枡に入る水の量を大きくするということと同じだ。

つまり、この枡の縁の部分に、新しく板を貼付け、内容量を増やす。

そういう風にして、日本の船は大きくなってきた。

その過程で、丸木舟が担っていた一番底の部分は、

航(かわら)と呼ばれる底板になった。

これは西洋船の構造で言えば、竜骨ということになる。

しかし西洋船の竜骨のように、肋骨にあたる部分は和船にはない。

航に根棚と呼ばれる板を接合し、さらにその根棚に中棚を接合する。

板を張り合わせて作った、船の形をした巨大なお椀だと考えればいい。

これが当時の船の、基本的な構造だった。

これに1本帆柱を立て、帆を張り、後部に取り外し式の舵をつければ

素の弁才船が出来上がる。

これにいろいろなオプションをつけていけば、船の完成だ。

舵が取り外し式だったのは、河口などの浅瀬を航行することも多く、

そういう場合、舵を固定式にしていない方が、便利だったからである。

さらに帆柱もまた、着脱式だった。

千石船の模型の中には、帆柱を立てずに、寝かして積んでいるものもある。

是非、注視してみてほしい。

構造上の問題があった。

まずひとつ、荷物の積載量を増やすために、甲板をもうけなかった。

これでは雨がふれば、中に水がたまる。

嵐にでもなれば、船の中にあっという間に水がたまってしまう。

この水を必死にかき出さないと、船はあっという間に沈んでしまう。

しかも荷物は過積載で、残っている写真資料では、

それこそ山盛りに荷物を積み上げている。

さらには、帆が一本しかなかったこと。

これは少ない人員で船を動かすためである。

さらに法では定められていないが、幕府による圧力もあったらしい。

一種の不文律というやつだ。

嵐にあったときは、帆柱を切り倒し、船員一同、頭を丸めて神に祈った。

嘘のような本当の話である。

しかしこれでは、仮に嵐を切り抜けられたとしても、

すでに船に機動力はなく、後は潮任せの漂流が待っているだけである。

こんなこともあって、当時の船の難破率は高かった。

舵もしっかりと固定されていなかったため、

荒天の際には破損してしまうことも多かった。

そうなると、やはり船は航行能力をなくしてしまうわけで、

やはり漂流の運命が待っている。

さらに帆だ。

帆は当初、筵(むしろ)であった。

藁や草で編んだ、簡便な敷物で、御座(ござ)ともいう。

やがて国産木綿が大量に生産されるようになると、

帆は木綿で作られるようになる。

しかし強度はなく、しょっちゅう破れ、船員はその補修に追われた。

1785年、播州高砂の工楽松右衛門が、太い木綿を使い、

丈夫な帆布を作成した。

これは彼の名前をとって、「松右衛門帆」と呼ばれた。

彼は幼少の頃より創意工夫が得意で、その人生において数々の発明をした。

新巻鮭を考案したのも、松右衛門である。

後年、彼は工夫を楽しむという意味の「工楽」の苗字を与えられた。

以上を見れば、当時の航海がいかに危険であったかがわかる。

これらの危難を乗り越え、江戸時代の、海の男達は船を走らせたのだ。

彼らが懸命に物流を担うことで、当時の経済は成り立っていた。

経済の発展と、物流の発展は同意だ。

物流の発展なしに、経済の発展はあり得ない。

さして語られることのない彼らの活躍が、

急激に発展した江戸時代の、日本経済を支えていたのだ。

次回は、彼らと、船の活躍について、書いていきたい。

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