前回、「千石船」と呼ばれた弁才船の、その構造について書いた。
今回は、その「千石船」の活躍について、書いていく。
車や列車等による陸上輸送が確立されるまで、
ほぼ全ての物流は、船が担っていた。
時代劇などを見れば、馬や牛の背に荷物をくくりつけたり、
大八車に荷物を満載して、輸送している姿がよく見られるが、
これで運べる物量というのは、驚くほど少ない。
その割に人手はかかり、ひどく経済効率の悪いものだった。
弁才船の場合、仮にその積載量が1000石であったとすれば、
およそ150tの荷物を運ぶことができた。
800石積の船で、水夫の数が10人、というデータがあるので、
恐らく1000石積の船でも、同じくらいの人数で動かしていたと思われる。
1人当たり、約15tの荷物を運んだ計算になる。
馬や、大八車と比べて、はるかに効率的である。
これで江戸~大阪間を、約12日かけて運んでいた。
最速では、3~4日という記録もある。
ここまで運搬効率に差があるのだから、物流量の割合からすれば
全物流のほとんどを、船が受け持っていたことになる。
もちろんこれは千石船のような、海を舞台とした大量輸送船に限らない。
当時は川でも、小型の輸送船が使われていた。
「高瀬舟」とよばれるものがそれだ。
そういう意味で、「川」というものの重要性は、
現代とは比べ物にならなかった。
川はただ水の供給所というだけではなく、重要な物流路だったのである。
前回、有名な「千石船」として、北前船、菱垣廻船、樽廻船、をあげた。
かれらは一体何を運んでいたのか?
それを見ると、同時の経済状況がよくわかる。
北前船は、蝦夷地(北海道)と大阪を、日本海まわりで結んでいた船である。
大阪から蝦夷地へ向かう時には、現地の人々のための衣料品、飲食物、
煙草などの嗜好品、塩、紙、砂糖、米、などを積んでいた。
これらを大阪で満載し、途中の寄港地で商売をしながら蝦夷地を目指す。
逆に蝦夷地から大阪に向かう場合、積み荷はほとんどが海産物である。
鰊粕、数の子、身欠きニシン、干し海鼠、昆布、干鰯、新巻鮭などである。
新巻鮭は、前回書いたように工楽松右衛門が発明したものである。
さらにこの北前船によって、昆布が大量に運ばれたことにより、
日本中で昆布が使われるようになった。
この北前船のルートが、日本海まわりの蝦夷地~大阪ルートであったため。、
昆布だしは江戸よりも、大阪で大きく発展することになった。
菱垣廻船は、大阪~江戸間で各種貨物を運んでいた。
各種貨物、と書いたのは、それこそ運べるものは、何でも運んでいたからである。
当時、世界最高の人口を要していた大都市江戸では、
その近辺の生産力だけでは、その膨大な需要を満たすことができなかった。
それを補うために、食料品、衣料品、などの生活必需品をはじめ、
ありとあらゆるものを、天下の台所といわれた大阪から運び込んでいたのである。
菱垣廻船の大阪~江戸航路は、まさに江戸の生命線だった。
その大阪~江戸航路で、酒をはじめとする、
各種液体を樽で運ぶことに特化したのが、樽廻船だ。
樽廻船は、もともと酒屋が自分たちの造った酒を運ぶために、
菱垣廻船とは別に、船を仕立てたことから始まった。
そういう誕生の経緯から、樽廻船と菱垣廻船は、
かなり険悪な関係だったようだ。
貨物が単一物なので、船への積み込みが早く、それだけに運搬効率は高かった。
これは現在のコンテナ輸送と、同じ考え方だ。
特に新酒をいかに早く江戸に届けるか、という一種のレースも行なわれ、
各船は先を争って江戸に向かった。
これは航海技術の向上に、大きく貢献することになった。
さて、このころの航路図を見てみると、
北海道から日本海側をまわり大阪までをつなぐ航路と、
大阪から紀伊半島をまわって江戸までつなぐ航路がある。
この2つが、当時のメイン航路だった。
この2つの航路を日本地図の上に描き込んでみると、
江戸から北海道まで、太平洋岸をまわるルートがない。
本州を囲むように描かれているルートで、そこだけが途切れている。
実は、このルートもあったのである。
これを「東廻り航路」と呼んだ。
松前から津軽海峡を抜けて、太平洋岸を房総半島まで南下、
そこから江戸に到るルートだ。
ただ実際は犬吠崎をこえず、銚子から利根川の水運を使って荷を運んだらしい。
それだけ海は危険であった、ということだろうか。
ただ、この航路はそれほど使われることはなく、
太平洋岸の東北各藩の藩米を、江戸に運ぶために使われる程度であった。
これらの船が活躍することによって、日本中に商品が行き渡った。
江戸時代の初期には米が経済の主体であったが、
この物流の活性化により、経済の主体は米から貨幣に移っていく。
そのため、米経済により成り立っていた、幕府の力は弱り、武士は弱体化した。
それに変わって力をつけてきたのが、商人である。
江戸時代の中盤から後半にかけて、経済的に困窮した大名達は
裕福な商人達からの借金を重ねるようになる。
この米経済から貨幣経済への移行に、なんとか対応できたのが
現在まで伝えられている、藩政立て直しの名君達である。
彼らは経済の主流が米ではなく、貨幣に移っていることに気がつき、
その貨幣を稼ぐために、藩内の産業を督励し、藩による専売化を図った。
武士とはいえ、実に冷静に経済状況を捉えていた。
これによって力を蓄えた藩のうち、いくつかは倒幕の主力藩となっていく。
「千石船」たちは、懸命に日本中の海を奔走することによって
日本の経済構造自体を変革させていった。
経済=物流という時代において、船はまさに時代を支えていた。
学校で習う歴史の授業では、陸の上の経済のことばかり話す。
だが、実際のところ、当時の経済は、海の上でこそ力強く脈打っていたのだ。
「千石船」は当時の日本経済において、まさに血であり、命であった。
そんな日本の歴史は、やはり「黒船」という異国の船によって
大激動の時代を迎えることになる。
この後、日本に導入された西洋船の技術によって、
「千石船」たちは衰退していく。
そして日本経済の物流は、海上から陸上へとシフトしていく。
黒船は、日本の物流においても、大きなターニングポイントとなったのである。