雑学、雑感、切れ味鋭く、思いのままに。

Falx blog 2

未分類

海難~その3

投稿日:

前回、前々回と、海難について書いてきた。

「平時」と「戦時」、それぞれの海難について、代表的な事故例をあげた。

今回は、「海難」の中でも特殊なものについて、書いていく。

今回、まず取り上げるのは、有名なマリー・セレスト号事件だ。

はっきり言ってしまえば、これは「海難」というよりは、

怪談話か、ミステリーみたいなものだ。

1872年11月7日、マリー・セレスト号はニューヨークから、

イタリアのジェノバに向けて出発した。

積み荷として、工業用エタノールを積み込み、船長とその家族、

さらに船員が7名と、合計10名の人間が乗り込んでいた。

12月4日、マリー・セレスト号はポルトガル沖で漂流していた所を、

デイ・グラチア号に発見された。

このデイ・グラチア号は、マリー・セレスト号の7日後に、

ニューヨークを出航、ポルトガル沖でこれに追いついた格好だ。

デイ・グラチア号の船長は、マリー・セレスト号の船長と知り合いであったため、

これに乗り込み、船内を調べはじめた。

マリー・セレスト号は、船体がびしょぬれであり、デッキは水浸しで

船倉も約1.1mに渡って浸水していた。

食料貯蔵庫の扉はひらいており、掛け時計は止まってしまっていた。

羅針盤は破壊され、六分儀とクロノメーターは取り去られていた。

救命ボートは残っておらず、手すりには血痕が残されていた。

船長の寝台の下には、赤錆た刀剣が隠されていた。

1700樽、積み込まれていた工業用アルコールは、9樽が空になっていたが、

残りの1691樽は無事に残っていた。

そして、もっとも不思議なことに、船内には1人も人間が乗っていなかった。

デイ・グラチア号は、マリー・セレスト号をジブラルタルまで曳航した。

なぜ、マリー・セレスト号の乗組員たちは船を捨てたのか?

そして船を捨てた乗組員たちは、一体どこに行ってしまったのか?

これは現在に至るまで、全く解明されていない。

船内には船長の日記が残されており、

そこには11月24日までの記録しかなかった。

これ以外の記録は、船内から見つかっていない。

冷静に考えれば、船員たちが六分儀とクロノメーターを取り外して、

救命ボートに乗り込んで逃げ出した、というのが妥当な所だろう。

羅針盤が壊されていたのは、取り外そうとして失敗したのかもしれない。

なぜ、そんなことが起こったのか?

気になるのは工業用アルコールが9樽、空になっている点だ。

ひょっとしたら、密封が充分でなかった樽があり、

そこからアルコールが気化したのかもしれない。

それを嗅いだ船員たちは、有毒ガスの発生と勘違いし、最低限の食料と、

マリー・セレスト号から取り外した、六分儀とクロノメーターを持って

救難ボートで逃げたのではあるまいか?

もちろん、広い大西洋で、小さな救命ボートでは、長くは持たないだろう。

マリー・セレスト号がびしょぬれであった点、船内が浸水していた点を見ると、

嵐にあった可能性は高い。

そうなると当然、救命ボートなどひとたまりもない。

乗組員たちは全員、海の藻くずと消えた。

こうして、後に残ったのは、無人のマリー・セレスト号と謎だけであった。

もちろん、確証はないが、ワケのわからないミステリーよりは現実的だろう。

もうひとつ紹介する海難事例は、船以外にも被害が甚大であった例だ。

普通、海難事故というのは、せいぜい船が何隻か巻き込まれる程度で、

陸上にまで被害が及ぶことは無い。

当たり前だ。

船が陸上にあがれない以上、海難は海の上だけで収まるに決まっている。

この事故は例外中の例外として、陸上にも多大な被害をもたらした。

第1次世界大戦中の1917年、

カナダの大西洋側の都市、ハリファックス市。

タイタニック号の事故で知られるニューファンドランド島と、

ニューヨークとの、ちょうど中間に位置しているこの町は、

カナダの大西洋側の玄関口ともいえる。

当時、ドイツの潜水艦による、商船破壊の脅威にさらされていた連合国の商船は、

アメリカからヨーロッパに渡る際には、船団を組み、

護衛艦隊に守られて、航行していた。

ハリファックス港は、そんな船団の集合地点であった。

ハリファックス港は、独特な形をしている。

わかりやすくいえば、ひょうたん型で、湾内の中程でぎゅっと狭まっている。

この狭い箇所は長さ2.5km、幅は750mしか無い。

事故を起こしたのは、フランスの貨物船モンブラン号である。

このモンブラン号も、大西洋を渡る船団の一員であり、

その集合地点である、ハリファックス港の奥へと向かっていた。

記録によれば、モンブラン号は集合に遅れ、かなり焦っていたようだ。

上記した狭まっている地点で、前を行くタグボートに対し、追い越しをかけた。

折り悪く、湾奥からはベルギーの貨物船、イモ号が出てくる所であった。

モンブラン号はあわてて進路を変更し、これをよけようとしたが、

時すでに遅く、イモ号はモンブラン号の左舷に激突した。

普通であれば、これはそれだけの事故である。

ただ今回は、これが普通ではなかった。

モンブラン号の積載していた貨物は、TNT高性能火薬が5000t、

他に火薬の原料となる、ピクリン酸とベンゾール液のドラム缶が、

積み込まれていた。

ピクリン酸は引火性が強く、ベンゾール液は揮発性が高い。

それぞれ単独では危険性は少ないのだが、

この2つが混ざると瞬時にして発火するという、恐ろしいシロモノだ。

イモ号の激突により、この2つの薬品のドラム缶が破損、

ピクリン酸とベンゾール液が混ざり、発火したのである。

船上火災ほど、恐ろしいものは無い。

しかもこの船には、まだTNT高性能火薬が5000t、

積み込まれているのである。

余談になるが、広島・長崎に投下された原爆の爆発力を、TNT火薬で換算すると、

10000tということになっている。

モンブラン号には、ちょっとした核爆弾に匹敵する火薬が積み込まれていた。

乗組員たちは、必死になって消火にあたった。

が、無駄。

現在でも、化学薬品の火事は、消火が難しい。

まして、小さなホースで水をかけるだけでは、火など消えるはずが無い。

乗組員たちは、自分の船に何が積まれているか、知っている。

目の前の火が消えない以上、いつ「それ」が起きるとも限らない。

乗組員たちは、早々に消火を諦め、救命ボートに乗って逃げ出した。

もちろん、船長もだ。

無責任極まりない、行動であった。

乗組員のいなくなったモンブラン号は、潮の流れにのってゆっくりと

湾の奥へと流れはじめた。

これを見て驚いたのが、湾内に停泊していた巡洋艦ハイフライヤー号だ。

すぐに炎上するモンブラン号に近づき、消火にあたろうとした。

だが時すでに遅く、次の瞬間、モンブラン号は大爆発、

というよりは、跡形も無く消え去った、と言った方がいいだろう。

至近距離にいたハイフライヤー号は、瞬時にスクラップとなり、

艦内にいたわずかな人間以外、生き残ることはできなかった。

モンブラン号と衝突したイモ号も、200mほど離れた地点にいたが、

同じくスクラップとなった。

もちろん、被害は海上だけに留まらなかった。

その凄まじい爆風によって、モンブラン号を中心とした、

半径3km以内の位置にあった港湾施設、建造物はほとんど倒壊してしまった。

まさに壊滅的な被害だ。

被害はそれだけに収まらなかった。

その後に起こった火災により、倒壊した建造物は跡形も無く焼けてしまった。

それだけではない。

この凄まじい爆発により、波高4mの津波が発生、町を襲った。

この海難による死者1500名、行方不明2100名、負傷者8000名。

家などを失い罹災者となった人は、25000人にもなった。

そのほとんどが、船とは全く関係のない、陸の上の被害者だった。

たったひとつの「海難」が、ひとつの町に壊滅的な破壊をもたらした。

まさに例外中の、例外の「海難」であった。

この事故から現代に到るまで、核爆発以外では、

この事故以上の爆発は起きていない。

核兵器がまだ影も形も無い時代の、爆発事故であった。

今回まで、3回にわたって、海難事故について書いてきた。

取り上げた「海難」は、最初に紹介したタイタニック号事故を

上回るものを選んでみた。

紹介した「海難」のいくつかは、大内健二著「海難の世界史」から

引用させてもらった。

「海難の世界史」には、これ以外にもたくさんの「海難」例が

掲載されている。

興味のある人は、図書館や書店で探してみてほしい。

Related Articles:

にほんブログ村 その他生活ブログ 雑学・豆知識へ
にほんブログ村

スポンサーリンク
スポンサーリンク

-未分類

Copyright© Falx blog 2 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.