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野見宿禰~その1

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歴史というのは、大体3つに分けることができる。

ブラックな歴史と、グレーな歴史、ホワイトな歴史だ。

順に説明していこう。

ホワイトな歴史というのは、ちゃんとした人間の歴史だ。

歴史というのは人間の歴史に決まっているだろ、と思われるだろうが、

実はそんなことはなく、日本のようにそこそこ長い歴史を持っている国では

人間ではないものの歴史というのも存在する。

ブラックな歴史というのは、人間ではないものの歴史だ。

具体的には神様やら化け物やらが出てくる歴史で、明らかに創作とわかる部分だ。

日本の歴史で言えば、イザナギやイザナミ、

アマテラスやスサノオの出てくる部分だ。

現代日本の歴史の授業では、ここの部分はばっさりとカットされている。

まあ、宗教的な問題もあり、妥当な判断だ。

そして最後がグレーな歴史だ。

神や化け物の歴史から、人間の歴史へと繋がっている以上、

途中には、その両方が入り交じっている部分が存在する。

実際にあったことを、神話の中に取り込んでいるのか、

それとも完全な創作なのか?

それが不明な部分である。

今回紹介する野見宿禰は、このグレー部分の歴史の人物である。

野見宿禰は『日本書紀』と『播磨国風土記』に書かれている人物である。

書かれている、とはいってもその量は少なく、

たった3つのエピソードがあるだけだ。

書き出してみよう。

エピソード1は、もっとも有名なものだ。

垂仁天皇の命令により、出雲から呼び出された野見宿禰が、

当麻蹴速と相撲をとって勝ち、その領地である当麻の地を貰った話である。

このエピソードがあるために、野見宿禰は相撲の神様と言われる。

これが、日本で一番最初に行なわれた相撲だという。

エピソード2は、そのちょっと後の時代のことだ。

垂仁天皇の妻、日葉酢姫が亡くなった時、

野見宿禰はそれまでの殉死の風習の代わりに、

土で作った埴輪を埋めるように進言した。

垂仁天皇はそれを取り上げ、以降、殉死が行なわれることはなくなった。

これが最初の埴輪であり、このエピソードがあるために

野見宿禰は土器師の代表だったと言われている。

エピソード3は野見宿禰の死んだ話だ。

出雲への旅をしていた野見宿禰は、その途中で病にかかり死んでしまう。

それを知った出雲の人々は、彼の死んだ地に来て、墓を作った。

その時、多くの人々が野に立ち、河原から墓を作る場所まで

石を運んだことから、その土地を「立野」と名付けた。

たつの市の「たつの」の名前はここからきている、という話だ。

自分が住んでいるのが、エピソード3の舞台、たつの市なので、

野見宿禰について知っていたわけだが、

恐らく、多くの人には初めて聞く名前だろう。

野見宿禰という人物について残っているのは、

上に書いた3つのエピソードのみである。

野見宿禰について、一般人よりは知っていると思われるたつの市民でも、

エピソード2については知らない人が多い。

だから今、ここに挙げたエピソード全てに目を通した人間は、

日本でもトップクラスと言えるほど、野見宿禰について知ったことになる。

たつの市には野見宿禰の墓、と言われる古墳がある。

その古墳は、現在、野見宿禰神社として、たつの市の観光スポットになっている。

たつの市のシンボル、的場山の中腹にあり、

その裏手から、的場山の山頂へ登っていくことができる

このように、たつの市の英雄として祭り上げられている野見宿禰だが、

先ほど挙げた3つのエピソードについては、それぞれに反証ができる。

あまり声を大にして言うと、たつの市民としてはアレなのだが、

ここでこっそりと反証してみる。

まずエピソード1。

垂仁天皇が出雲から野見宿禰を呼び寄せた、とある。

この垂仁天皇の時代、播磨に天日鉾という人物がやってきた。

この天日鉾は播磨の支配者、伊和大神と戦っている。

この天日鉾、『日本書紀』では朝鮮人として書かれ、『播磨国風土記』では

異国の神として書かれている。

まさにグレーな時代の、グレーな人物と言える。

この時代の播磨地方は、出雲勢力と大和政権の支配圏のちょうど中間地点だった。

伊和大神が、出雲神話の英雄、大国主命と同一視されていることを考えると、

播磨地方は当時、出雲勢力寄りの土地だったと思われる。

まだ出雲勢力の力の強かったこの時代、はたして大和政権の垂仁天皇が

出雲地方在住の野見宿禰を、大和に呼び寄せることができたのだろうか?

どうも怪しい。

続いてエピソード2。

垂仁天皇の妻、日葉酢姫が亡くなった時、野見宿禰が殉死の風習を止めて、

代わりに埴輪を埋葬するように、と天皇に進言した話だが、

そもそも古代日本には殉死という風習がなかったという。

実際の所、殉死があったことを示す証拠は何も見つかっていない。

と、すればこの話は、元からおかしいということになる。

そしてエピソード3。

野見宿禰の墓だが、かなり傾斜の急な所にあり、

本当にそんなところまで石を運び上げたのか?という疑問がある。

実際に墓の周囲を歩いてみればわかるが、野見宿禰の墓から

少し的場山を登ると、岩肌がむき出しの岩場がある。

距離の離れた河原から石を運び上げなくとも、

ここからなら、近い距離、石をおろすだけですむ。

そういう地理的条件から考えると、この話には無理がある。

今、行なった反証をまとめてみると、エピソード1の

野見宿禰が出雲出身であるという点、

エピソード3では、野見宿禰の墓の真偽性について疑問符がつく。

野見宿禰の墓については、現在のもののほかにもいくつか候補地がある。

現在の野見宿禰の墓の近くにいくつか、

さらにたつの市揖西町の土師地区周辺にいくつかである。

距離のある2カ所に、候補地が集中している。

「土師」という名前が指すように、ここはもともと土器師の郷であった。

付近からは土器を焼いていた、窯の遺跡も見つかっている。

土器師の代表であったといわれる野見宿禰と、うまく符合している。

問題はどうして墓の候補地が、1カ所ではなく2つの場所に別れて

点在しているのか?だ。

簡単な仮説を立てる。

シンプルな話だ。

野見宿禰の墓は2つあったからだ。

恐らくたつので病に倒れた野見宿禰は、

自分と同じ、土器師の村に身を寄せたのだろう。

そこが現在の土師地区だった。

土器師は、もともとは大陸からやってきた渡来人の技術集団だ。

そういう意味では同じ渡来人同士、同族意識もあっただろう。

しかし結局、野見宿禰は亡くなってしまう。

とりあえず土師地区の土器師たちは、自分たちの同族として野見宿禰を葬った。

しかし野見宿禰が亡くなったことを知った、出雲勢力あるいは大和政権が

たつのの支配者に命じ、改めて正式に埋葬させた。

その時に埋葬されたのが、現在の墓だったのではないだろうか?

こういう事態が起こったとすれば、墓が2つあっても不思議ではない。

さて、かなりの文章量になってしまった。

しかも趣味に走ったので、かなりの人を置いてけぼりにした気もする。

置いてけぼりにしておいて申し訳ないのだが、次回も同じテーマだ。

次回は今回触れなかった、野見宿禰の本当の出自について

仮説をぶち上げてみることにする。

次回もおつきあいいただければ幸いだ。

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