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忍者の系譜〜その4 忍者の残したもの。

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ここまで3回にわたり、
古代中国から忍者の系譜を追いかけてきた。
今回は、「忍者」がもっとも活躍した時代、
戦国時代を取り上げる。

北条政権が力を失い、後醍醐天皇による建武の新政を経て、
足利尊氏が室町幕府をひらくに至った。
室町時代の始まりである。
しかし室町幕府は、1467年の応仁の乱をきっかけに、
次第に荒廃していく。
幕府は、全国の有力な大名たちを抑えることが出来なくなり、
日本中に戦乱が巻き起こる時代に突入する。
戦国時代の始まりである。

この時代は、力を持った土豪が、
実力をもって守護大名から、実権を奪っていく。
まさに下克上の時代である。
そのような混沌とした社会情勢では、
何よりも情報、謀略が重要であり、
「忍者」の需要も爆発的に高まっていく。

各地の戦国大名は、それぞれに忍者組織を持ち、
それを使って、戦国時代を生き抜こうとした。

武田信玄が使った、「乱波(らっぱ)」。
上杉謙信の使った、「軒猿(のきざる)」。
北条家の使った、「風魔一族」。
毛利家の使った、「佐田三兄弟」。

名の通った戦国大名には、
それぞれにお抱えの忍者組織があった。
だが、これらはどれも、
戦国時代になって、新たに作られた忍者組織で、
歴史のある諜報組織ではない。
歴史、実力ともに抜きん出ていたのは、
やはり、伊賀・甲賀の忍者であった。
戦国の風雲児・織田信長と
天下人となった豊臣秀吉が甲賀忍者を、
江戸幕府をひらいた徳川家康が、
伊賀忍者を使っていたことからも、
その実力がうかがえる。

では一体どういう経緯で、甲賀が織田・豊臣に、
伊賀が徳川につくことになったのか?

甲賀の場合は、極めて単純で、
織田四天王の1人・滝川一益が甲賀出身だったのだ。
滝川一益自身が忍者であった、という話もある。
この噂の真偽は明らかでないが、
少なくとも、織田信長は彼を通じて、
甲賀忍者を使うことが出来たのだろう。
そしてそれは、信長亡き後の秀吉にもいえる。
本能寺の変で信長が倒れた後、
滝川一益は柴田勝家について、秀吉と戦っている。
結果として、滝川一益は秀吉に降伏し、
その命を救われている。
この際、一益の持っていた甲賀忍者の力を、
譲り受けたのではないだろうか?
あるいは、織田信長という雇い主を失った甲賀自身が、
天下人にもっとも近い秀吉を見込み、
自らを売り込んでいった、とも考えられる。

一方、徳川家と伊賀忍者の繋がりは、驚くほどに古い。

伊賀では、服部一族を中心として、
大きく3つの党派があった。
服部一族。
藤林一族。
百地一族。
狭い伊賀でのことなので、恐らくはこの3つの党派は、
それぞれに密接に血縁関係で結ばれていたはずだ。
このうち、もっとも本家筋であった服部一族は、
戦乱の世にあって、伊賀に留まることなく、
外の世界に飛び出していくことを、選択した。
かくして、伊賀領内に藤林一族と百地一族を残し、
服部一族は、その活躍の舞台を外に求めた。

そしてその外での仕官先のひとつが、松平家だ。
家康の祖父・清康の時代からの関係であった。
だとすれば、徳川家(松平家)と、服部一族の関係は、
家康の代で、すでに3代に渡っていたことになる。
また、家康は服部一族の縁を使い、
永禄3年(1560年)に甲賀忍者を雇い入れている。
永禄3年といえば、桶狭間の戦いで今川義元が亡くなった年だ。
まさに家康にとっては、
人生のターニングポイントとなった年である。
そういう時期に、忍者組織を増強することにより、
情報収集力を強化し、厳しい時代を生き延びようとしたのだ。
その家康の努力は実り、やがて信長、秀吉亡き後に、
国内最大の実力者となった彼は、朝廷に働きかけ、
征夷大将軍の位を授けられ、江戸幕府を開くのである。

さて、江戸幕府がひらかれ、大坂の陣で豊臣一族が滅亡し、
日本国内には平和の時代が訪れた。
この平和な時代の中で、
忍者たちはどのように生きていったのか?

江戸に幕府を開いた徳川家だが、その力が安定するまでは、
有力大名たちの監視を怠るわけにはいかなかった。
徳川家に仕えていた忍者たちには、これらの大名を監視する、
隠密としての役目が与えられた。
彼らはこっそりと各大名の領国に侵入し、
その内政面の不備を探った。
そして、彼らが探り出した情報をもとに、
有力大名に対する、改易が行なわれた。
そのため、彼らは大名たちから恐れられ、
徹底的に警戒された。
特に警戒が厳しかったのは、薩摩・島津藩で、
侵入した隠密たちは、
10人に1人しか帰って来なかったという。
もっともこの役目は、徳川幕府の力が安定してくると、
だんだんと縮小されていったようだ。

もちろん、これ以外にも忍者の役割はあった。
それが江戸城のお庭番だ。
早い話が、江戸城の庭係である。
忍者の仕事ではないようにも思えるが、
彼らは江戸城内において、
将軍等の身辺警護も担っていたのだ。
もっとも、平和な時代が長く続いた後、
彼らは本当にただの庭係のようになってしまう。
警固の厳しい江戸城内に、忍び込むような暗殺者もなく、
彼らにとっては、もはや忍術など無用のものであった。

一部の甲賀忍者は、江戸の町同心として、
市内の治安維持にあたった。
その忍者としての知識、技術を犯罪捜査に生かしたのだ。
しかし、犯罪捜査で必要とされるのは、
きわめて限定された知識と技術のみである。
こちらにまわされた忍者たちからも、
やがてその忍術は失われていった。

こうして、260年の長きにわたる平和な時代によって、
忍者はだんだんとその姿を消していった。
そして、時代が風雲急を告げる幕末、
徳川幕府には、もはや実用に堪えるような忍者も、
忍術も残ってはいなかったのである。

都合、4回にわたって忍者の系譜を追ってきた。
現在、忍者は物語の中にしか残っていないが、
その残っている姿も、現実の姿からは
大きくかけ離れたものだ。
どうしてこのように、
真実の姿とかけ離れたものになったのか?

恐らく、忍者自身が、自らの真実の姿を隠すため、
滑稽な忍者像を流布したのではないだろうか?
後世の人々は、まんまとその思惑にはまり、
忍者を摩訶不思議な妖術師のように、捉えてしまった。

現代人は、今もなお、忍者たちの掌の上で
転がされているのである。

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