たつの市は、「童謡の里」というのをウリにしている。
すべては童謡「赤とんぼ」を作詞した三木露風が、
旧龍野市出身であったことが、始まりである。
このことから、旧龍野市において、童謡「赤とんぼ」は、
独特の存在感を持っていた。
それがこうじて、「童謡の里・龍野」というキャッチフレーズを使い始めたのが、
昭和59年のことである。
それ以来、様々なイベントを行い、「童謡の里・龍野」をアピールしてきた。
……。
その方針にケチを付けるわけではないが、
旧龍野市に生まれ育った身としては、その「童謡の里宣言」に、
なんともいえない違和感があった。
少なくとも、龍野市に住んでいても、
「童謡」には何の思い入れもなかったし、
ただ三木露風の生誕地というだけの、認識しかなかった。
その三木露風についても、龍野市出身という事実と、
「赤とんぼ」の作詞者であるという事実を知っているだけであった。
大方の龍野市民が、自分と同じようなものだったのではないだろうか?
そんな、違和感を拭いきれなかった「童謡の里宣言」から30年。
毎年、「日本童謡祭り」というイベントを開催し続けてきた。
どんなに違和感のあるイベントでも、
30年も続けば、不思議と重みが出てくる。
「童謡の里・龍野」というフレーズも、30年聞き続けているうちに、
違和感を感じなくなった。
最近は、毎年行なわれている「日本童謡祭り」に顔を出すのも、
恒例になっている。
特に童謡が好きなわけではないのだが、
1年に1度くらいは、そういう音楽イベントを覗いてみるのも、
良いかもしれないと思うようになったのだ。
この「日本童謡祭り」は、たつの市の赤とんぼ文化ホールで、
全国から公募した、「新しい童謡・三木露風賞」の授賞式と、
プロの歌手たちによる童謡コンサートが行われる。
入り口では、無料でパンフレットが配られており、
もちろん入場も無料である。
出演する歌手の中には、名の通った歌手が何人もいる。
その歌声を無料で聴けるというのだから、かなりお得なイベントである。
たつの市が、いかにこのイベントにお金をかけているかがわかる。
観客席に座り、パラパラとパンフレットをめくってみる。
前半は、「三木露風賞」の授賞式、
後半が、地元合唱団や、プロの歌手によるコンサートだ。
パンフレットには、今回の「三木露風賞」の受賞者の他に、
これまでの受賞者の名前も掲載されている。
さらに今回招待されている、プロの歌手たちの簡単なプロフィールなども、
載っている。
それを見ると、参加しているプロ歌手の中に、たつの市出身の歌手が2人いる。
これもまた「童謡の里宣言」の、ひとつの成果かもしれない。
パンフレットによれば、「三木露風賞」というのは、
全国から新しい童謡の「歌詞」を募集して、その中から選ばれる。
「童謡の里宣言」から、毎年続けられているので、
今年で、実に30年目を迎えていることになる。
第12回までは、作詞だけでなく作曲もやらせていた。
つまり、普通に曲をひとつ作らせていたのである。
第10回から第12回までは、作詞の部と作曲の部に分けて募集していたが、
第13回からは作詞の部のみになった。
応募してくる人数も掲載されており、
それによると4800人以上がこの賞に参加している。
この中の4100人が、兵庫県内の児童、学生ということになっている。
160人ほど、県外の児童、学生の応募があるが、
実際には、ほとんどが県内からの応募ということになる。
この他に550人ほどの、一般人の応募があるのだが、
これは日本全国から、くまなく集まっている。
これを見て、ふと気になったことがあった。
今から30年前に、「三木露風賞」が始まったとすれば、
そのころ自分は小学生だったはずだ。
そうなると、市内の小学生である自分たちにも、
このイベントへの参加が、強制されていたのではないか?
そう考えて、小学生のころの記憶を掘り起こしてみた。
……あった。
確かにあった。
「三木露風賞」への応募するためだったのかは知らないが、
確かに音楽の授業で、作詞と作曲をさせられた記憶がある。
はっきりいって、あまり良い記憶ではない。
確か小学4年生か、5年生くらいのことだったと思うが、
まず「作詞をしてくるように」という課題が出た。
これは簡単だった。
笑いをとることを考えた、コミックソングのようなものを作詞して、
好評だったのを覚えている。
問題はその後であった。
「作った歌詩に、曲をつけてくるように」という課題が出た。
これには参った。
かつて「能楽」について書いたときにも触れたが、
音楽というのは、自分にとって鬼門である。
小学校、中学校を通して「2(5段階評価で)」以外をとった記憶がない。
「2」というのは、授業に休まずに出ていればとれる、最低の成績だろう。
楽譜なんかはさっぱり読めないし、楽器なんぞ全く扱えない。
そんな自分に曲を作れというのは、無茶が過ぎる。
困り果てた自分は、やけくそな手段をとった。
細かく切った紙に、「ド」~「シ」までの音階を書き、
これをティッシュの空箱に放り込み、くじ引きの要領で1枚ずつ引いたのだ。
出た音階を、五線譜の上にかき込み、適当に音符にしていった。
小節とか、記号とか全くわからないので、
音楽の教科書に載っている楽譜を参考にして、それらしく書き足していった。
気分は作曲というより、楽譜の偽造である。
とりあえず「ちゃんとした楽譜」にみえるように、絵画的才能を発揮した。
幸いなことに、こちらの才能には、かなり恵まれていたので、
そこそこ「ちゃんとした楽譜」らしきものを、作り上げることができた。
その楽譜がきちんと演奏できるものであるかどうかは、
全く問題ではなかった。
結果としては、こっぴどく叱られてしまった。
実際の所、全く曲の態をなしていなかったわけだから、
これは無理もない所だ。
しかし、いくら叱られた所で、作曲なんて無理なものは無理なのだ。
この件で、どうもその音楽の先生からは匙を投げられたらしく、
以降はその方面で、どうこう言われることは無くなった。
「やればできる」と、無茶な要求をされるよりは、
余程そちらの方が気が楽であった。
この話を当時の友人に話した所、あきれられた。
聞いてみると、どうもまわりの人間は普通に作曲ができていたらしい。
やはりこの方面に関しては、自分は決定的に才覚がないらしい。
30回という節目を迎えた「三木露風賞」。
どうも苦い思い出が蘇る「童謡祭り」だった。