ちょうど1年前にあたる2016年12月22日。
新潟県糸魚川市において、1つの火災が発生した。
時刻は午前10時20分ごろ。
糸魚川市大町にある中華料理店の厨房から火が出た。
店主は鍋に火をかけたまま、数十m離れた自宅へと戻り、
再び店に戻ってきたときには、
既に手のつけられる状況ではなくなっていた。
火元となった中華料理店は、市街地中心部の糸魚川駅北側にあり、
現場一帯は、昭和初期に建造された雁木造の商店街や、
木造住宅の密集地帯であった。
また、当日は日本海上空に低気圧があり、
そこに向けて、強い南風が吹いており、強風注意報も出されていた。
中華料理店から出火した火は、この南風に煽られるようにして
この密集地帯へと襲いかかった。
木造建築の密集地帯に、強風に煽られた火が襲いかかっては
これはもうダメである。
糸魚川市の消防本部のみならず、近隣の地方公共団体、
果ては県外の消防隊まで、合計43隊が投入されたが、
それでも翌日16時30分の鎮火までには、30時間もの時間を要した。
この火災によって、火元から海岸に向かっての147棟が焼損し、
その被害面積は40000㎡にも達した。
はっきりいってしまえば、そこから先は海で、
燃えるものがないから、そこで火事が収束したといっても良い状況だ。
まあ、密集地帯で消防車なども入り込みにくい上、
強風によってあちこちに飛び火し、
複数箇所で火の手が上がったわけだから、
消火などはもう、土台、無理な話である。
消火のためにと町の中へ入り込めば、
いつの間にやら炎に包まれていた、なんてことにもなりかねない。
言い方は悪いが、密集した木造建造物群など
巨大な薪の塊であるといってもいい。
もし火の進んだ先に海がなかったとしたら、
恐らく被害はこの数倍、数十倍にもなっていたかも知れない。
幸いにして、昼間の出火であったため、避難勧告が素早く行き渡り、
ケガ人が17名の他、死者などは出なかった。
もちろん、死者が出なかったことは、不幸中の幸いだ。
しかし、年末も差し迫ったこの時期に、住居・家財道具一切、
全て失ってしまった被災者の不幸は、察するに余りある。
そもそもの原因が、中華料理店店主の不注意であるわけだから、
彼に向けて、どれだけの怨嗟の声が上がったのか、
想像するだけでも恐ろしい。
この店主に関しては、裁判において禁固3年・執行猶予5年の
有罪判決が下された。
この糸魚川大規模火災、通称・糸魚川大火は、
火災の恐ろしさをまざまざと見せつけてくれた。
強風に煽られた火が、町を嘗めるように燃え広がっていく様子が
ほぼリアルタイムでTV中継され、また、SNSや動画サイトには、
現場近くにいる人間からの、写真や映像がアップされることになった。
火災だけで、これだけの規模の被害を出すというのは、
近年では全く記憶にない。
(阪神淡路大震災や東日本大震災で発生した火災は、
当然、糸魚川大火を大きく上回る規模のものであったが、
その2つの災害では、その火災すら霞むほどの
大被害が発生していたため、それほど火災だけが
強く印象には残っていない)
この糸魚川大火は、映像などによって克明に記録された大火災として、
長く人の記憶に残っていくことになるだろう。
火災というのは、人間の引き起こす災害だ。
もちろん、中には人間の全く関わっていない所で起こる火災もあるのだが、
この地球上で起こっている火災の99%以上は、
何かしら、人の手による原因によって発生している。
原因は簡単で、地球上に生きる生物の中で、
唯一、人間だけが日常的に「火」を扱っているからだ。
これが完璧に管理できているのであれば、何の問題もない。
だが、これに失敗した場合、起きる事態は2つ。
火が消えるか、火災が起こるかである。
これはもう、人が火を扱い始めたころからのことであり、
人が集まり、大挙して暮らす都市型の生活を始めてからは、
この火災も、極めて大規模なものが起こるようになった。
今回は、そんな大火災のうち、特に「世界三大大火」と呼ばれるものを、
取り上げてみたい。
まず今回、最初に取り上げるのが「ローマ大火」である。
この「ローマ大火」が起こったのは、西暦64年7月19日、
現在から遡ること、まるっと2000年近く前である。
日本ではまだ、都市といえるほどのものは作られておらず、
もっとも栄えている場所であっても、
集落に毛が生えた程度のものだったころである。
しかし、すでにそのころにはローマは100万人都市を築いており、
政治・文化において、正に世界の最先端といってよかった。
当時のローマには、高層集合住宅まで作り出されていて、
一般市民の多くは、こうした集合住宅に住んでおり、
都市としての規模でいえば、江戸時代の東京(江戸)と比べてみても、
ほとんど遜色がない。
そんな高度な都市を、2000年前に築いていたローマの人たちには
驚くほかないが、この大都市を、未曾有の大火災が襲った。
その火は6日7晩燃え続け、ローマの3分の2を
焼け野原にしたというのだから恐ろしい。
これだけの規模の大火災に発展した理由としては、
当時のローマの建造物の大半が、木造だったからだ。
さらにいえば、ローマは帝政期に入り、急激に大都市へと発展したため、
火災などの対策のなされた都市計画が立てられておらず、
道幅も狭く、木造建造物が非常に密集して建てられていた。
そう。
奇しくも、冒頭で取り上げた、糸魚川大火と
非常に似通った状況だったわけだ。
出火当時、ローマ皇帝はローマ南方にある
アンティウム(現在のアンツィオ?)の別荘にいたのだが、
火災の報告を聞くや、すぐさまローマへと取って返し、
自ら陣頭指揮を執って、消火及び被災者の救済にあたった。
この皇帝というのが、悪名高いネロである。
火災に対する迅速な対応を見ると、かなり優秀な皇帝に思える。
(事実、皇帝ネロは悪名を高めた残虐な行為の他に、
キチンとした善政も行ない、それなりに高い評価を受けている)
しかし、この「ローマ大火」のころには、彼の悪名も
相当高くなっていたようで、消火・被災者救済を
陣頭指揮したにも関わらず、市民たちの間では
「大火を宮殿から眺めつつ、故事になぞらえ『トロイアの陥落』を
吟じていた」
という風評が立った。
さらに、一旦鎮火した火が、貧民街から再び上がり、
そこが悪名高いネロの護衛隊長・ティゲリヌスの
所有の土地だったことから、
「ネロは、新しく都を造るために、放火した」
との、まことしやかな噂まで流れた。
こういった悪評をもみ消そうと、ネロはローマ市内のキリスト教徒を
大火の犯人として捕まえ、反ローマと放火の罪で火刑に処した。
このころ、キリスト教は成立から半世紀も経っておらず、
まだまだ怪しい新興宗教と見なされていた時代である。
(厳密にいえば、ユダヤ教の分派のひとつと考えられていたようだ)
彼らは、ローマの多神教を否定し、伝統的な祭りや儀礼、
はてはローマ皇帝への中世まで拒否していたため、
ローマの中にも、彼らに否定的な考えを持つ人間も多かったようである。
こうした市民たちの、キリスト教徒への悪感情を利用して
自らの風評の改善を狙ったネロだったが、
その悪評はぬぐい去ることは出来ず、
さらにこの行為そのものが、キリスト教徒たちからの反感を買い、
歴史的な悪名へと繋がっていくのである。
大火後、ローマの町は新たな都市計画に基づいた、
火災対策も充分に施された都市として、再建されることになる。
ネロはこれらに私財の一部を投じたのだが、
その際、どさくさにまぎれて自身の宮殿も新しく建てたため、
ますます彼の悪名は高まることになってしまった。
この大火は、皇帝ネロにとっては、まさに踏んだり蹴ったりの
結果となってしまったようである。
さて、今回は世界三大大火のうちで、もっとも最古のもの、
「ローマ大火」について書いた。
次回は、この1600年後、我が国で起きた
世界三大大火の1つについて書いていく。