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世界三大大火〜明暦の大火

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前回、世界三大大火の最初の1つとして、
今からおよそ2000年前、ローマで起こった
ローマ大火」を取り上げた。

同時期の日本が、まだ、原始国家といっていい
文明レベルだったことを考えると、その当時で既に100万人都市を
築き上げていた、古代ローマ人たちの文明の高さには、驚きを隠せない。
世界三大大火と呼ばれるほどの、大火災を起こしたということは、
逆にいえば、それだけ文明が高かったということの証明にもなる。
大火災を起こすためには、それだけ人も、家も、数がなければならない。

今回、取り上げる「明暦の大火」は、
「ローマ大火」から時代を下ること、おおよそ1600年後の話になる。

徳川家康が関ヶ原の合戦に勝利し、朝廷より征夷大将軍に任命され、
江戸に幕府を開いてから、おおよそ半世紀。
幕府のお膝元として、江戸は急速な発展を遂げた。
大名たちは参勤交代という制度により、1年おきに領国と
江戸を行き来しなければならなくなったため、
江戸に土地を買って屋敷を建て、そこに人を定住させた。
人が増えれば、当然、そこに商売・仕事が生まれる。
これを求めて、日本各地から江戸へと人が流れ込んできたのである。
この江戸に集まった人々の大半は、大方が長屋と呼ばれる
庶民用の集合住宅に住み、そこを生活の基盤としていた。
当然、江戸に人が増えれば、これらの長屋などもドンドンと建て増しされ、
さらに江戸の町に人が増え、人が増えると、さらにそこに
商売や仕事を求めた人々が集まってくる。
こうして江戸の人口は、雪だるま式に増えていったのである。

そして明暦3年(1657年)、江戸の町は既に限界に来ていた。
無秩序に建て増しされた、膨大な住居群。
そしてそこに溢れる人、人、人。
衛生環境は悪化して疫病が流行、治安も悪化して連日の様に
殺人事件などの犯罪が起こる。
江戸は、もともとある程度の都市計画に沿って造られた町だったが、
その急速な発展ぶりは、当初の思惑を大きく越えていたのだ。

そのような混沌とした江戸の町から火が出た。

1月18日(現在の暦では3月2日)、
本郷丸山の本妙寺から出た火は、強風によって
神田・京橋方面へと燃え広がった。
湯島天神、神田明神、東本願寺を焼いた火は、隅田川にまで及び、
霊巌寺へと避難した約1万人の市民が、火に囲まれて焼死した。
また、小伝馬町の牢獄では、囚人たちの焼死を防ぐため、
奉行の判断で一時、囚人たちを解放した。
しかし、このことを知らされていなかった浅草橋では、
これを囚人たちの脱走と勘違いし、彼らの逃走を防ぐために
門を封鎖してしまった。
そのため、逃げ場を失った人々は、そのまま炎に焼かれることになり、
2万3千人の人々が命を落とすこととなった。
この火災は、翌19日の深夜2時ごろになって、ようやく鎮火した。
だが、ことはこれだけでは終わらなかった。

同日、朝10時ごろ、今度は小石川伝通院下新鷹匠町の
大番与力宿舎から出火、この日は飯田橋から九段へと燃え進み、
江戸城も天守閣を含め、その大半が焼失してしまった。

さらに同日、夕方16時ごろ、今度は麹町5丁目より出火。
この火は南東方向へと燃え広がり、新橋の海岸までを焼きつくした。
江戸湾岸には多くの船が停泊していたが、これらもまた多くが焼けた。

このころ、江戸の町では80日間も雨が降っておらず、
空気は乾燥し切っており、そこに強風に煽られた火が
燃え広がっていったのだから、手のつけようがなかったのだろう。
結果的には、江戸市街の6割方、幕府開府以来から続く
古い密集した市街地については、その全てが消失してしまった。
この大火による犠牲者の数は、3万人とも10万人ともいわれる。
先に書いた通り、霊巌寺で1万人、
浅草橋では2万3千人が死亡しているので、
それを計算に入れれば、やはり10万人近い人が亡くなったと
考えた方が良さそうである。

この当時、江戸の消防体制として組織されていたのが、
「大名火消」である。
これは譜代16名の大名を4組に編成し、
それぞれ1万石ごとに30名、1組420名の火消しがいたとされる。
これが事実だとすれば、「大名火消」は1680名いたことになる。
消防車も何もない時代、江戸の半分以上を焼きつくす火事に、
1680人程度の「大名火消」がいた所で、何ほどのことが出来るか?
さらに彼らは、その性質上、江戸城周辺と武家屋敷の消火を中心に
行なったため、民家や寺院については、全く手が回らなかった。
それだけのことをしても、江戸城ですら大半が焼け落ちたのだから、
いかに当時の消防組織・消防力が非力だったかということである。
もちろん、町人たちによる消防組織も存在しており、
火災が発生した際には、火元の町人が全員参加して、
消火活動にあたることになっていたが、これだけの大規模火災で
火元の町人たちが消火にあたった程度で、どうにかなるわけがない。
また、「江戸町火消」が幕府によって制度化されるのは、
これよりずっと後の、徳川吉宗の時代である。
詰まる所、このころの「町火消」は我々がイメージする
後代のそれよりも、ずっと規模も小さかったということである。
そんなもので、これだけの大火災をどうにか出来るわけもない。
かくして江戸の町は、その大半を焼失するという憂き目に遭うのである。

さて、そもそもの話である。
開府以来、50年を迎えた江戸の町が非常に猥雑な町となっており、
折からの乾燥状態で、非常に燃えやすくなっていたのは事実だとしても、
一体、どういうわけで火が出たのか?

先にも書いた通り、この「明暦の大火」において、
もっとも最初に火が出たのが、本郷丸山の本妙寺である。
もちろん、この「明暦の大火」では、後にさらに
2カ所から出火しているのだが、穿った考えをすれば、
後の2カ所については、最初の火災が何らかの影響を与えた可能性もある。
第1の火事でくすぶっていたり、舞い上がった火の粉が風に流され、
新たな火種となった可能性も否定できないのだ。
特に出火場所から察するに、第2と第3の出火場所は、
場所的に、そのような関係であった可能性は高い。
そうでなくても、未曾有の大火災で町中混乱を極めているのだ。
事故による失火なども、起こりやすい状態だっただろう。
それらの全ての元となった本妙寺の出火原因については、
なんとも奇妙な話が言い伝えられている。

江戸・麻布の質屋の娘が、本妙寺へと墓参に行った帰り、
寺の小性らしき美少年に目を奪われ、一目惚れしてしまう。
彼のことが忘れられない娘は、やがて食欲をなくし寝込んでしまう。
これを心配した両親は、せめてもの慰みにと、その少年が着ていたのと
同じ絵柄の振袖を作り、娘に与える。
娘はこの振袖を抱きしめ、愛しい彼に思いを焦がすが、
やがて病は悪化し、娘は死んでしまう。
両親はせめてもの供養にと、その振袖を娘の棺にかけてやった。
当時、こうした棺にかけられた遺品は寺男が貰っていいことになっていた。
寺男によって転売されたこの振袖は、別の娘のものになるが、
この娘もまた、病に倒れてなくなり、さらにまた、
その振袖を手に入れた別の娘も命を落とした。
この振袖にまつわり、あまりにも娘たちが命を落とすので、
本妙寺の住職は、この振袖を寺で焼いて供養することにした。
住職が読経しながら、振袖を護摩の火の中に投げ込むと、
にわかに風が巻き起こり、火のついた振袖は寺の屋根に舞い降りて
屋根を燃やし始めた。
たちまち屋根は大炎上し、そこから舞い上がった炎は町へ飛び、
ついには江戸の町を焼きつくすことになったという。
このことから、この「明暦の大火」のことを、
別名「振袖火事」とも呼ぶ。

もちろん、この話は多分に脚色されたものであろうが、
実際、寺で焼いていた振袖の炎が燃え広がったというのは、
事実の様である。
そんな風の強い日に、屋外で物を燃やすなど危険極まりないが、
どうしてそんな状況下で、振袖を燃やしたのかは、よく分からない。
この出火原因には異説もあり、

・江戸の都市改造を実行するために、幕府が放火した
・実は火元は本妙寺ではなく、隣の老中・阿部忠秋の屋敷だったが、
 これが露見すると幕府の威信が失墜するので、
 本妙寺が火元であったことにしてもらった

などの説が、まことしやかにささやかれている。
幕府放火説は、江戸城まで燃えてしまっている辺り
どうも後付け的な話のようだが、老中宅火元説は、
この火事の後も、本妙寺が責任を問われなかったこと、
大正時代に至るまで、阿部家が本妙寺に
多額の供養料を支払っていたことなどから、それなりに信憑性がある。

いずれが真実なのかは定かではないが、
我が国における、史上類をみない大規模火災を受けて、
様々な話が囁かれるのは、ある意味では、
自然なことだったのかも知れない。

そして、次なる世界三大大火は、このわずか9年後、
地球の裏側において、発生するのである。

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