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報道の不自由

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先日来、自民党の若手議員が行なった「勉強会」で、

「政府批判をするマスコミは、経団連を通じて懲らしめる」
「沖縄の2紙は潰さなくては」

といった発言があったことが明らかになり、
国会は大モメにもめている。
まるで飲み会で気炎を上げる、お調子者のような発言だが、
これを発言したのが一国の国会議員であったことが、
やはりマズかった。
政府与党は、大方のマスコミにバッシングを受けているので、
それに対する反発というのもあったのだろうが、
マスコミに聞こえる場所でのこの発言は、
迂闊だったといわざるを得ない。
その辺りの「脇」が甘い所が、
やっぱり若手なんだなー、と思わせてくれる。

ただ、冷静に記事を読み返してみると、
「沖縄の2紙を潰さなくては」と発言しているのは、
この勉強会に講師として招かれていた、
作家の百田尚紀だ。
「永遠の0」や「純愛」などを書いたベストセラー作家で、
その発言はこれまでに何度も、騒動を引き起こしている。
(沖縄問題以外でも)
冷静に状況を考えてみると、
彼の発言が過激だろうが、激烈だろうが、
これは問題にならない。
彼は名前こそ良く知られているものの、公人ではないからだ。
彼がどんな思想を持っていようと、それは彼の自由である。
批判はあるかも知れないが、その発言を止めることは出来ない。
それをすれば、彼の「自由」を侵すことになるからだ。

この手の「不用意発言」があると、
マスコミは極めて反射的にヒートアップする。
その反応の早さは、いっそ脊髄反射的ですらある。
たちまちどのニュース番組でも、
トップニュースでこれを取り上げ、
口を揃えてこれを罵り、弾劾する。
自らの権利、利権を侵すものに対しての
過剰とも言える反応は、各局ともに一様である。
こういう場合、各社ともに金言のように持ち出してくる言葉が
「報道の自由」である。
マスコミは、この言葉が大好きだ。
ことあるごとに口にしているといって良い。
少しでも自分に都合の悪いことがあると、
この「報道の自由」を盾にして、ガードを堅めてしまう。
そういうマネをしすぎたためか、昨今、
「報道の自由」という言葉のイメージは悪い。
何かマスコミが問題を起こし、糾弾されたとき、
「報道の自由」を盾にし続けてきたために、
「報道の自由」は泥をかぶり続け、ひどく薄汚れてしまった。
これを見続けてきた一般人にすれば、
「報道の自由」といえば、何でも許されると思うなよ、
という気持ちである。

「報道の自由」とは、マスメディアによって行なわれる
取材・報道活動、さらには報道機関の設立の自由をさしている。
日本の場合、この根拠となっているのは、
日本国憲法第21条の「知る権利」である。
これは「国民が自由に情報を受け取る権利のこと」であり、
マスメディアの「報道の自由」は、
国民の「知る権利」を充足させるものということになっている。
つまり「報道の自由」を盾にするということは、
国民の「知る権利」、
さらには国民そのものを盾にしているわけである。

だが、「報道の自由」があるのと同様に、
報道には「不自由」さもある。
え?あのやりたい放題の報道に「不自由」があるの?
と、思う人も多いだろう。
当然、報道には、決してそれを侵してはならないという、
絶対的な「不自由」が存在している。
それが、
「事実を事実のまま、伝えなければならない」
ということだ。
……。
そんなの当たり前じゃないか、という人もいるだろう。
しかしこれは、報道機関にとって厳しいものである。
報道機関は、それぞれが
「自らの主張」を持っていることが多い。
政治的なもの、倫理的なものなど、様々な主張があるのだが、
世の中で起きる出来事が、
すべてその「主張」に沿っているとは限らない。
例えば、世論が「報道機関の主張」と
大きく食い違っていることもある。
例えば、「報道機関の主張」とそれに相反する主張が
全く五分五分の勢いがある、
あるいはわずかにあいての主張の方の勢いが強い、なんて場合、
本来の報道機関は、
その状況をそのまま伝えなければならない。
当然のことである。
たとえそれが「自分の主張」にとって、
厳しく、不利なものであっても、
そこを曲げて報道してしまっては、報道の意味が無い。
これは、自らの主張を持って報道を行なっているのであれば、
不自由極まり無いことだろう。
しかし、だからといって、
意図的に自分に都合の悪い事実を隠したり、
自分に都合のいいことばかりを選んで報道するのは、
「報道」というものの本質から外れている。

最近、どうもこの「報道の不自由」を無視している
マスメディアが多い。
自分に都合の良いことのみを報道し、
自分に都合の悪いことは報道しない。
これは決して「報道の自由」などではない。
「報道の不自由」を侵し、
国民の「知る権利」を侵害している。
かつて、あるニュース番組で、
ある政治的な集会に集まった支援者の数を、
大幅に水増しして報道するという「事件」があった。
これなど「報道の不自由」を意図的に無視した、
悪辣な情報操作である。
後に、このニュース番組のキャスターが、
「数字が違っていたとして、何がいけないんでしょうか?」と、
恐ろしい発言をしていた。
まさか、自らの主張は正しいから、
そのための情報操作は許されるとでも、考えているのだろうか?
だとすれば、それはとんでもない思い上がりである。
「あったこと」を「あったまま」報道しない報道機関は、
ひとかけらの信頼もおけるものではない。
そこに「報道の自由」は存在しないし、
そこに「報道の不自由」も存在していない。
つまりそれは「報道」では、ない。

今回、自民党の「勉強会」の一件で、
問題として取り上げられているのは、
あくまでもマスコミ・報道機関への
「報道の自由」の侵害についてのみである。
経団連に手を回し、沖縄2紙を懲らしめるというのは、
もちろん、国会議員たるもののやっていいことではない。
明らかに「言論の弾圧」にあたっている。
しかし、逆に考えてみれば、
全くの民間から「そういう」動きが出てきた場合、
はたして「それ」は、「言論の弾圧」になるのだろうか?
公人が、自らの気に入らない新聞に圧力をかければ、
これは確かに重大な問題になるが、
全くの民間から同じ「こと」が沸き上がった時、
それは「言論の弾圧」になりうるのだろうか?
民間の場合は、経団連を通して圧力をかける、
なんてことは出来ないだろう。
そうなると、その運動はただの「不買運動」ということになる。
これを封じる手段というのは、
それこそ「言論の弾圧」になりうるのではないか?
そして沖縄2紙は、自らにとって都合の悪い「それ」を、
「報道の不自由」によって、きちんと報道するのだろうか?
いや、そもそも沖縄2紙は今まで、
「報道の不自由」に従い、自らの主張に反する意見を
きっちりと取り上げてきていたのだろうか?

報道は自由で、同じくらい不自由である。
マスコミが「報道の自由」「報道の不自由」を
きちんと守り抜いているか?
しっかりとチェックする義務が、国民にはある。

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