雑学、雑感、切れ味鋭く、思いのままに。

Falx blog 2

歴史 雑感、考察

五右衛門風呂

更新日:

前回の記事の中で、少し触れたことなのだが、
我が家は現在の家を建てる前、借家暮らしであった。

その借家は、かなり小さな家で、
幼少のころの一時期、住んでいただけなので、
間取り等について、おぼろげ程度にしか覚えていないのだが、
そんな借家の中で、鮮烈に覚えているのが
「五右衛門風呂」である。

自分がその借家で暮らしていたのは
昭和50年代のことなので、
すでに大方の家には、「五右衛門風呂」は無かった筈である。
その借家が、周りの家に比べても
圧倒的に古かったのは確かだが、
その最たるものが、この「五右衛門風呂」であった。
システム的に、この風呂にはガス給湯器や
石油燃料を使う風呂釜は用いられていない。
家の外に、この風呂を沸かすための釜が存在しており、
鋳鉄で出来た扉を開くと、その中には丸い風呂の底があって、
その風呂の底をあぶるように火を燃やすと、
風呂の水が温まるという、非常にシンプルな構造である。
恐らくは、母親がこの釜の中で薪などを燃やし、
日々の風呂を焚いていたのだろう。

新しく家を建てたとき、
薪と灯油、どちらでも風呂が焚ける釜をつけたので、
母親の負担はグッと減ったのだが、
その代わりに、自分が薪を使って風呂を沸かす仕事を
任されるようになり、
それまでの母親の負担が、
そのまま自分へと回ってくることになった。
新しい家の風呂は、借家のときの五右衛門風呂と違い
水をたっぷり張ることが出来る。
つまり、それだけ風呂を焚くのに時間がかかる
ということである。
その後は随分と長い間、
風呂焚き仕事を続けることになるのだが、
今回はそれについて書く機会ではない。
今回のテーマは、あくまでも「五右衛門風呂」である。

「五右衛門風呂」というのは、日本の風呂の種類の1つで、
鋳鉄風の風呂桶で、直火で温めた湯に入るものである。
現在の風呂桶(浴槽)は、
ほぼ100%四角いものになっているが、
この「五右衛門風呂」は丸く、半球状である。
イメージ的にいえば、底の丸い鍋に水を入れ、
そのまま直火にあてて、湯を沸かすようなものである。
鋳鉄製の風呂桶が、そのまま直火で熱せられているため、
そのまま風呂に入れば、熱くなった風呂桶で火傷をしてしまう。
そうならないように、釜の底の形に合わせた丸い板を踏んで沈め、
その板の上に乗るような形で、入浴することになる。
もちろん、直火であぶられている風呂桶の底部分以外、
サイドの部分もそこそこ熱くなっていることが多いので、
基本的には「そこ」にも触れないようにする。
鋳鉄製の風呂桶自体が、直火で熱されて熱くなるため、
意外にお湯が冷めにくいのも、特徴の1つである。
基本的に現在用いられている一般的な浴槽よりも、
小さく作られているため、中に入る湯の量も少なく、
比較的短時間で沸かすことが出来る。

「五右衛門風呂」の名前の由来は、
安土桃山時代に活躍(?)したといわれる盗賊、
石川五右衛門から取られている。
彼は仲間とともに都を荒し回り、豊臣秀吉によって捕えられた。
時に1594年、8月24日。
京都三条河原にて子供・母親とともに釜茹での刑で処刑された。
一説によれば、処刑は水でなく油で行なわれたとするものもある。
油風呂である。
この当時、荏胡麻から菜種へと油の生産方法が変わり、
油の生産量が増え始めたころである。
大量の油を使うので、日本ではほとんど行なわれていなかった
「揚げる」という調理方法が、南蛮人の手によって持ち込まれ、
ようやく広まりだしたころであろう。
盗賊の処刑に、その「揚げる」という方法を使ったのは、
新しい物好きの秀吉ならではのことだろうか?
(もちろん、熱い油の中に突き落としたのではなく、
 低温の油の中に入れて、加熱していったので、
 感覚的には「揚げる」というよりは、
 油で煮る「コンフィ」に近いものだったのかもしれない)
講談などでは、五右衛門は一緒に釜に入れられた息子を
高く持ち上げていたが、
突如として釜の中に沈めて殺してしまったという。
息子を長く苦しまないように殺したのだとか、
あまりに熱くて息子を足の下に敷いたのだとか、
様々に解釈されているが、真実は分からない。
ともあれ、「五右衛門風呂」の名前の由来が、
この石川五右衛門の釜茹での刑からつけられていることは、
間違いがない。
「五右衛門風呂」では、板を沈め、
足の下に敷いて風呂に入るのだが、
これは五右衛門が息子を足の下に敷いたという話と、
微妙に符合している。

日本に「風呂」という文化が入ってきたのは、
6世紀、仏教の伝来と共にである。
仏教には、
「風呂に入ることは、七病を除き、七福を得られる」
という考え方があり、
また、身体を洗い清めることは、
大切な業の1つだとされていたのだ。
では、それまでの日本に、湯につかる文化がなかったのか?
ということになると、それにも疑問符がつく。
ご存知の通り、日本には温泉が各地に点在している。
仏教伝来以前にも、温泉に入るということが
行なわれていたと考えられる。
ただ、人工的に湯を沸かし、風呂に入るというのは
やはり仏教伝来以降のことのようである。
調べてみると、日本古来の風呂には二通りあり、
1つは現在のもののように、湯船に浸かる方式のもの、
もう1つはいわゆる蒸し風呂で、
現在のサウナに近いものだったようだ。
「風呂」という言葉は、
もともとこちらの方の意味だったらしい。
湯船に浸かる方式のものだが、
こちらの方は別に熱湯を準備しておき、
これを風呂桶の中で、水と混ぜ、
適温にして入っていたようだ。
そういう意味で「五右衛門風呂」は、
湯船に張った「水」を、そのまま「湯」にするということで、
全く新しい方式の風呂だったということになる。

かくして我が家は借家暮らしから離れ、
問題の借家もすでに取り壊されてしまった。
以降の人生では、
ついに「五右衛門風呂」に出会うことはなかった。
確かに面白い風呂ではあるし、
それなりに郷愁もあるのだが、
今更あの風呂と付き合っていけるか?といえば、
やはり答えはノーである。

珍しさや郷愁だけでは語れない、
実際に日々、「五右衛門風呂」で生活していた人間の
素直な感想である。

Related Articles:

にほんブログ村 その他生活ブログ 雑学・豆知識へ
にほんブログ村

スポンサーリンク
スポンサーリンク

-歴史, 雑感、考察

Copyright© Falx blog 2 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.