前回、室津という、播磨地方でも有数の歴史を持つ町について、
その歴史という点に重点をおいて、書いてみた。
今回は室津を、文化的な点から書いてみたい。
前回書いたように、室津は非常に狭い町である。
その狭い町の中に、地図の上だけでも2つの神社と、4つの寺がある。
タウンページで調べてみたところ、神社は1つ、寺は4つが確認できた。
それぞれの4つの寺のうち、3つは一致したが、残る1つは一致していなかった。
どうやら寺は、5つ存在しているようだ。
これは室津に、寺社が7つ存在していることを示している。
この中で、もっとも規模の大きいものが、賀茂神社であろう。
室津を見下ろす、小高い明神山の上に建つ賀茂神社は、平安時代の創建である。
京都の賀茂神社から、勧請してきたものであり、
主祭神・賀茂別雷神を祀っているのも、同じである。
本殿を含む8棟の建造物が、重要文化財に指定されている。
境内にはソテツが生えており、ここが野生のソテツの、
日本国内における北限として、県指定の文化財になっている。
狭い室津において、ほぼ例外といっていいほど、広々とした社域をもっている。
かつて江戸参布途中のシーボルトが訪れ、播磨灘の展望を絶賛したといわれる。
4月15日には「小五月祭」と呼ばれる祭礼が執り行われ、
その中で、かつて遊女達が歌ったという「棹の歌」が披露される。
もちろん、現在、遊女はいないので、その代わりに地元の少女達が、
紫地の着物を着て並らぶ。
これも、県の無形文化財に指定されている。
この室津の賀茂神社であるが、能楽の「賀茂」とも大きな関わりがある。
というのも、能楽「賀茂」に、この室津賀茂神社の神官が登場するのだ。
彼が京へ上り、賀茂神社の由来について話を聞く、というのが、
大体のストーリーなのだが、今回はその部分については割愛する。
この能楽の中では、神官は自らを「室の神官」と紹介する。
この「賀茂」を作ったのが、室町時代の猿楽師・金春禅竹といわれているので、
少なくともこの作品が作られた室町時代には、まだ「室津」ではなく、
「室」と呼ばれていたようである。
神社以外には、寺が5つある。
前回、「室津千軒」という言葉について書いたが、
かつては、この1000軒の仏事を、この5つの寺でまかなっていたのだろうか?
ちなみに現在の室津は、420世帯、1114人の人口を有している。
1000軒の半分も残っていない。
1950年には2331人の人口があったので、
この半世紀で人口は半減したことになる。
室津の伝説的な遊女「友君」には、浄土宗の開祖・法然上人との
エピソードが残されている。
建永2年(1207年)、法然上人が74歳で讃岐に流されたとき、
室津の港で1人の遊女に出会った。
彼女は「友君」といい、かつては木曾義仲の愛妾の1人であった。
義仲亡き後、流浪の果てに救いを求めてきたのである。
法然上人は、彼女に念仏の功徳を説き、歌と、自ら作成した頭像を与えた。
感激した「友君」は、この頭像に胴体をつけようと、粘土をこね、
長い時間かかって、法然上人の像を完成させた。
この像は、今も浄雲寺に残っている。
宗教的な話はここで終わり、ここから食べ物の話になる。
「くさや」と呼ばれる、干物がある。
その名の通り、臭いことで有名な干物である。
伊豆諸島で作られているのだが、この材料となっている魚が「ムロアジ」である。
この「ムロアジ」の名前が、「室津」に由来しているという説がある。
「室」にてよく獲れたから、「室鯵」。
ストレートなネーミングだ。
そんなに獲れていたのなら、「くさや」らしきものが、
作られていても良さそうだが、室津近辺にはそういう干物は存在しない。
ムロアジ自体が、外洋に面した沿岸部に生息しているため、
瀬戸内海の室津で果たして本当に獲れたのか、疑問は残る。
現在の室津の水揚げを見てみると、その中にムロアジの名はない。
「その他」という項目が30%ほどあるので、その中に含まれているのか?
現在の室津では、ムロアジの水揚げ量はかなり少ないようだ。
現在の室津の漁獲量を見てみると、もっとも獲れているのは、
カレイ類ということになっている。
続いて牡蠣。
これは養殖によるものだ。
さらにイカナゴ、エビ類と続く。
県下での、春のイカナゴ漁は、一種の風物詩のようになっている。
毎年、その水揚げ量はニュースになる。
これを醤油とザラメ、みりんなどで煮詰めていくと「イカナゴの釘煮」ができる。
もとは明石の方の特産品だったようだが、
現在では、県下の瀬戸内海沿いの町で、広く作られている。
さらにタコ類、ナマコ、シャコ、イカ類、鰆、ガザミと続く。
改めて見てみると、魚類の水揚げが少ない。
カレイ類、イカナゴ、鰆くらいしか、獲れていない。
それ以外の魚類は、その他の中に埋もれてしまう程度しか、獲れていないようだ。
近年では、牡蠣の養殖が盛んになっているが、
これは室津だけでなく、東の網干でも、西の相生でも赤穂でも行なわれている。
そういう意味で、室津だけの特産品というものはない。
平地が少なく、その平地に人家が密集しているので、
農業というのはほとんど行なわれていない。
傾斜地の一部が開墾され、畑として利用されているが、
あくまでも自家消費分を作っているだけである。
前回も書いたが、司馬遼太郎、谷崎潤一郎、竹久夢二などの文化人が、
室津を訪れている。
谷崎潤一郎は、室津を舞台にした「乱菊物語」を執筆したが、
これは未完で終わっている。
同じく竹久夢二も、木村旅館の女将をモデルにして、「室津」を残している。
他に、室津に関係のある物語として、井原西鶴の「好色五人女」の中の、
お夏・清十郎物語が取り上げられることがある。
もっとも、この話の場合、清十郎の出身地が室津というだけで、
物語自体は姫路を中心にして進んでいく。
清十郎は、室津の造り酒屋の息子という設定だが、
果たして当時の室津に、造り酒屋があったのだろうか?
地形的に、真水を手に入れるのにも苦労しそうな場所だし、
コメも室津では作れない。
もっとも近い、揖保川水系の水も、酒の醸造に向いている水ではない。
かつては商業・文化の交流地点として、賑わっていた室津。
現在の姿からは、往年の姿を思い浮かべることは難しい。
しかし、かつては確かに、この小さな町に、
様々な人や、物や、文化が集まってきていた。
これを説得力を持たせ、人々に伝えるのは難しい。
現在の室津しか知らない人間にとっては、まさに夢物語に等しいからだ。
……何より自分自身、あの小さな集落といっていい町に、
それだけの歴史が詰まっているということに、違和感を拭いきれない。
逆に言えば、そのギャップこそが、
様々な文化人を惹き付けてきた、理由なのかもしれない。
知れば知るほど、現在の姿との違いに戸惑いをおぼえる町。
それが、室津という町である。