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歴史

高松塚古墳

更新日:

「大台ケ原」に向かおうと、
奈良県内の国道169号線を走っていたときのことである。

信号待ちで停車していると、
目の前の標識に、「高松塚古墳」の名前があった。
どうやら、その信号のすぐ近くに、
「高松塚古墳」があるらしい。

「高松塚古墳」。
マジメに歴史の授業を聴いていた人間なら、
誰もが知っている名前であろう。
鮮やかな色彩で描かれた、壁画で有名な古墳である。
壁画については、四神や人物画など、様々なものがあったのだが、
その中でも特に有名なものが、
西側の壁に極彩色で描かれていた「女子群像」である。
歴史の教科書などでも「高松塚古墳」として紹介されるのは、
この「女子群像」の壁画ばかりである。
「女子群像」には、4人の女性の姿が描かれており、
それぞれに赤、黄、緑、白(?)の衣服をまとっている。
さらに2人は、地味目の紺(青)の袴(?)をはいているが、
残る2人は、赤、青、白の縦縞模様の派手な袴をはいている。
思わず、散髪屋の店頭で回っているアレか!と、
突っ込みたくなるが、
当然、散髪屋のアレよりは、ずっと古い時代に描かれたものである。
この「女子群像」は、「飛鳥美人」のニックネームで知られている。

「大台ケ原」に向かう、という目的がなければ、
迷わずハンドルを切って、そちらの方に寄り道する所なのだが、
今回は、時間的に押し詰まった「大台ヶ原山行」がある。
我々2人は、「高松塚古墳」って、こんな所にあるんだなー、
という感想を述べるだけに留め、
信号が青に変わると同時に、再び「大台ケ原」に向かって、
走り出した。

そして、その後、我々は「大台ケ原」に辿り着き、
「東大台」の周遊コースを3時間半ほどかけて回り、
当初の予定であった「大台ケ原山行」を無事に成し遂げた。
時間は、ちょうどお昼ごろである。
もちろん、帰りについても4時間ほどかかるのだが、
今から帰り始めれば、たつのには午後4時くらいに
到着することになる。
かなり早い時間の帰着である。
自分も友人も、別に急いで帰らないといけない理由もないので、
当初、友人が希望していた通り、
帰路にあたる奈良・大阪を、
ブラブラ観光しながら帰ろうということになった。
まあ、適当な観光は、4時間のドライブのいい息抜きにもなるだろう。

そういうわけで我々2人は、どこに寄ろうか?と意見を出し合った。
その際、まず第1に出てきたのが、「高松塚古墳」であった。
行きと同じ道を通って帰る以上、またすぐ傍を通ることになる。
で、あれば、あれだけ有名な古墳であるわけだし、
帰り道のすぐ傍なら、時間的なロスも少ない。

そのようなワケで、帰り道にも国道169号線を通り、
朝に通過した「高松塚古墳」の標識の所で、道を曲がった。
曲がってみて驚いたのは、奈良の田舎ぶりである。
はっきりいって、たつの市の郊外と何ら変わらない。
細い道を、カーナビに従って進んでいくと、
やがて車は小高い丘の上へと誘導された。
ナビによると、すぐ目の前に駐車場があるはずなのだが、
駐車場のあるはずの場所が、ブドウ畑になっている。
ひょっとしたら、カーナビの地図が古いのだろうか?
仕様がなしに、その場所を離れ、
その辺りを車でウロウロと移動してみる。
そうすると、さっきのブドウ畑からさらに上がった場所に、
車が7〜8台停められそうなスペースがあり、
そこに「有料駐車場」という、手書きの看板が立ててあった。
有料といいつつも、係員などはおらず、
小さな木の箱が置かれていて、
そこに1台100円を入れてくれと書いてある。
一帯の道があまりにも狭く、
他の駐車場を探すのが面倒だった友人は、
そのまま、その駐車場に車を停めて、車を降りた。

友人に続いて、自分も車を降りたのだが、
途端にムワッとした、不快な暑さに顔を歪める。
恐ろしいほどの蒸し暑さである。
京都や岐阜など、盆地というのは夏、暑苦しいことで知られているが、
奈良もその例に漏れないらしい。
今日は朝の4時からほとんど車の中にいて、
そこではしっかりとエアコンが効いていた。
もちろん「大台ケ原」では、車を降りて「東大台」を歩いたのだが、
「大台ケ原」の標高は1500mを超えており、
平地よりも10度は気温が低い。
仮に平地が気温35度の猛暑日であったとしても、
「大台ケ原」では気温25度くらいの、
非常に過ごしやすい環境なのである。
朝からそんな環境の中にいた我々に、この蒸し暑さはこたえた。
こたえたが、だからといって、どうすることもできない。
我々はうだる様な蒸し暑さの中、案内標識に従って、
進んでいった。

ここは、国営の飛鳥歴史公園の1つに指定されており、
きっちりと整備が行き届いている。
飛鳥歴史公園というのは、この近辺に5つ設定されていて、
「高松塚古墳」のあるこの一帯の他に、
「石舞台古墳」のある一帯、「キトラ古墳」のある一帯などがある。
どこにも、歴史の教科書でお馴染みの古墳などがあるため、
観光客も多く訪れ、この日の「高松塚古墳」にも、
自分たち以外の、多くの観光客が訪れていた。

駐車場から2〜3分ほど歩くと、
あっさりと目の前に「高松塚古墳」が現れた。
古墳、といえば、「仁徳天皇陵」の様な、
前方後円墳を思い浮かべるが、
この「高松塚古墳」は、2段構造になった、ごく普通の円墳である。
ちょっと小高い丘の、中腹に作られているのだが、
それほど巨大なわけではない。
直径にして23メートルほどの、円錐状をしている。
本来は、どこかに石室への入り口があるのだろうが、
それはきれいに埋め戻されており、周りをグルリと回ってみても、
入り口の様なものは見当たらない。
表面には草が生い茂っているのだが、
きれいに刈り込まれているため、
特に荒れている様な印象は受けない。
この中に、小さな石室があり、そこの壁に、
あの有名な壁画が描かれていたわけである。

この「高松塚古墳」が発見されたのは、
1962年のことである。
村人が、生姜を保存するための穴を掘っていた所、
穴の奥に凝灰岩の切石が見つかった。
1970年、付近に遊歩道を設置するための調査が必要となり、
1972年3月に発掘調査が始まった。
調査開始間もなく、石室の中に描かれた極彩色の壁画が発見され、
考古学史上まれに見る大発見として、新聞に発表され、
トップニュースとして報道された。

さて、この「高松塚古墳」であるが、
1962年に発見されるまでにも1度発見され、
盗掘を受けていた形跡がある。
石室の南壁には、盗掘者が掘ったと思われる穴が開いていたのだが、
幸いなことに壁画は盗掘を免れた。
(まあ、壁画など盗み様がなかったのだろうが……)
恐らく盗掘者は、埋葬品を盗み出した後、穴を埋め戻し、
それ以降は全く発見されることなく、
現在に至ったものと考えられている。

発掘当時、壁に描かれている壁画を
取り出すことが難しかったこともあり、
そのままの状態で、保存されることが決定された。
だが、年1回の定期点検の際に不手際があったこともあり、
石室内部にカビが発生し、壁画が劣化し始めた。
この事実はしばらく公表されなかかったため、
国民の不信を招く結果となり、問題視されることになった。

2006年から墳丘の発掘調査と、
石室の解体修理が行なわれており、
2007年には、公園内に修理施設が完成し、
石室は一旦解体された後、この施設に運び込まれ、
10年かけて修理される予定である。
修理が終了した後は、再びもとの古墳に戻されるという。
2007年から10年間かけて修理する、ということは、
予定通りであれば、来年には修理が完了するということである。
その時にはまた、「飛鳥美人」フィーバーが起こるかも知れない。

この「高松塚古墳」のすぐ傍には、
「高松塚古墳壁画館」が作られ、
そこでは、再現された石室内部を
見学することが出来るようになている。
が、恐ろしいほどの数の観光客がいたのと、
中に入っても、本物の「女子群像」が見られないということなので、
我々は、壁画館の中には入らず、
そのまま「高松塚古墳」を後にした。

その後、他の遺跡には回らず、
そのまま奈良を後にすることになったのだが、
やはり奈良は、歴史が古いだけあって、
有名な歴史的観光スポットが、あちらこちらに点在している。

いつか時間をかけて、ゆっくりと見て回ってみたいものである。

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