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記憶に残る「船」〜ヴィクトリア号

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自分の書いた記事を、改めて見直してみると、
存外、海や船について書いたものが多い。

これは自分自身、昔から海や船に関して縁が深かったからなのだが、
そういうわけもあって、自分が読む本の中にも
「海」や「船」を扱ったものが、結構、混じってくる。
それらの書物を通じて、歴史的な様々な「船」について
色々と知ることが出来たのだが、
今回から数回に分けて、その中から、特に記憶に残っている船について、
取り上げていきたい。

まず初回である今回、取り上げるのは「ヴィクトリア号」だ。

「ヴィクトリア号」と聞いても、
一体、どんな船かよく分からない、という人も多いだろう。
現在でも、この名前を冠した客船などが就航しているが、
もちろん、自分の言う「ヴィクトリア号」は、
現在、活躍している船ではない。

1519年。
5隻のカラック船とカラベル船が艦隊を組み、
スペインから大西洋へと乗り出していった。
トリニダード号、サン・アントニオ号、コンセプシオン号、
サンティアゴ号、そしてヴィクトリア号である。
トリニダード号を旗艦とするこの艦隊は、
香料諸島と呼ばれる、東南アジアのモルッカ諸島を目指していた。

だが、大西洋へと乗り出したこの艦隊は、
アフリカの西海岸沿いを南下するルートを取らず、
そのまま、大西洋を西へと突っ切って行った。
実はこの当時、トルデリシャス条約というものが定められており、
ヨーロッパ以外の全ての陸地は、ポルトガル(東方の地)と、
スペイン(西方の地)の間で、2分されていたのである。
なかなか厚かましい条約だが、そんな条約が取り交わされるほどに、
当時のポルトガルとスペインの力が強かった、ということだろう。
そのため、スペインが東南アジアにあるモルッカ諸島を目指す場合、
アフリカ西海岸を南下し、喜望峰を東へ回って
アフリカ東海岸を北上、インド洋を東へ横断するという
東周りルートが使えなかったのである。
だから、このスペイン艦隊は、自分の目的地であるモルッカ諸島が、
西へ西へと進んでいった先に「ある」ことを信じて、
西へと進んでいったのである。

1519年、12月13日。
このスペイン艦隊は、リオデジャネイロ近くの湾に到着すると、
そのまま海岸線を南へと辿った。
アルゼンチン・パタゴニア地方の、
プエルト・サン・フリアンで越冬したのだが、
1520年3月、ここで3隻の乗員による反乱が勃発する。
幸いにもこの反乱は鎮圧され、反逆者は処刑されるか、
あるいはこの地に置き去りにして、探検の旅は続けられたのだが、
このころ、偵察任務のため先行していたサンティアゴ号が
嵐にあって難破してしまう。

艦隊は4隻となり、さらに南へと進み、
10月21日、艦隊は南米の先端で
大西洋から太平洋に抜ける狭い航路を発見した。
この水路は、艦隊の指揮官の名を取って
「マゼラン海峡」と名付けられた。
だが、ここに来て、さらに問題が起こる。
このときになって、艦隊の1隻、サン・アントニオ号が艦隊を脱走、
スペインに帰ってしまったのである。
全くの未知の海(太平洋)に入るのが、
恐ろしくなったのかも知れない。
3隻になった艦隊は、このマゼラン海峡を抜けて、
新たな海へと入った。
ちなみに、この新しい海を「太平洋」と名付けたのも、
先述した指揮官・マゼランである。
彼はこの新しい海を「Mar Pacifico(平和の海)」と呼んでいた。
先にサン・アントニオ号が脱走したことを見ても、
艦隊内部に、未知の海への恐怖感が蔓延していただろうことは、
想像に難くない。
マゼランが、この新しい海を「平和の海」と名付けたのも、
この艦隊に蔓延している恐怖感を、
少しでも解消しようという狙いがあったのかも知れない。

艦隊はマゼラン海峡を抜けた後、
そのまま北西方向に向かって進み続けた。
そして1521年3月。
ついに一行は、太平洋を横断してフィリピン諸島に辿り着く。
位置でいえば、本来の目的地であったモルッカ諸島の北にあたるのだが、
ここに到着したのは、ヨーロッパ人として初めてのことであった。
彼らは、原住民の案内でゼブ島により、
そこで十字架をたてて、原住民たちに洗礼を施し始めた。
だが、4月27日、
敵対部族による襲撃があり、ここで指揮官であったマゼランが
非業の死を遂げてしまう。
さらにその数日後には、再び襲撃があり、
マゼランの後任に選ばれていた、新しい指揮官まで殺害されてしまう。
この襲撃によって、3隻全ての船に水兵を配置できなくなったため、
ここでコンセプシオン号に火を放ち、
残るトリニダード号とヴィクトリア号で船出することになった。
2隻は、本来の目的地であったモルッカ諸島を目指し、
この年の11月、ついにモルッカ諸島に到着する。

モルッカ諸島で、船に高価なスパイスを満載し、
いざ出発というときになって、トリニダード号の水漏れが酷くなり、
海に出せなくなってしまった。
この時点で指揮官を務めていたカルバーリョは、
トリニダード号とともにこの地に残ることになった。
船を修理して、後から追いかけるつもりだったのである。
こうしてついに、ヴィクトリア号はただ1隻となりながらも、
スペインを目指すことになった。
モルッカ諸島から、オーストラリアの西海岸に沿うようにして南下し、
そのままインド洋を西へと突っ切った。
やがて喜望峰を越えた所で、船の針路を北に向け、
そのまま、アフリカ西海岸を北上するような形で、
1522年9月、ついにスペインへと辿り着いた。
約3年間、68000kmに及ぶ大航海であり、
ヴィクトリア号とともに、無事にスペインに戻ることが出来たのは、
わずか18名の水兵だけであった。

ここで、モルッカ諸島で別れた、トリニダード号の
その後のことにも触れておこう。
修理の終わったトリニダード号は、太平洋を渡り、
スペインに帰航しようとした。
もちろん、ここまで来た航路を戻るワケではない。
南米のパナマまで赴き、そこから陸路を通って
カリブ海側の基地へ行き、そこで新たに船を仕立てて
スペインへ戻るつもりだったのである。
だが運悪く、トリニダード号は
ポルトガルの艦隊に拿捕されてしまった。

さて、ここまで見れば、「ヴィクトリア号」がどういう船だったか
理解してもらえるだろう。
そう、この船は世界で一番最初に、
世界一周を成し遂げた船だったのである。
これがもし現代であれば、この世界初の快挙に国は沸き立ち、
「ヴィクトリア号」は伝説の船として永久に保存されたことだろう。
だが、当時のスペインでは、そういう記録的なことには全く頓着せず、
修理の終わった「ヴィクトリア号」は売却され、
南北アメリカで、スペインの商船として使用された。
そして1570年ごろ、
アンティル諸島からセビーリャに向かう大西洋上で、
乗員ごと海に飲み込まれ、帰らぬ船となった。
人類初の世界一周を成し遂げた後、半世紀近く、
現役の商船として、乗り回されていたということである。

それにしても、世界を西へ進み続け、
地球を1周することで、地球が球体であることを
実地に証明してみせた「ヴィクトリア号」。
(地球が球体であること自体は、すでに科学者たちの研究によって
 解明されていたが、実際に地球をひと回りして、
 この説を実証したのは、「ヴィクトリア号」である)
5隻の艦隊の中では小さい船であったが、
様々な困難を乗り越え、見事、18名の水兵とともに
世界初の世界1周を成し遂げてみせた。
その快挙を考えれば、月ロケットにも等しい「船」なのだが、
存外、こちらの方はその名を知られておらず、
歴史上でのその後の扱いも、雑である。

「ヴィクトリア号」は、もう少し、人々に知られていてもいい、
歴史的な「船」である。

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