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誰が将軍を殺したか?〜その3

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ここまで、「誰が将軍を殺したか?」と題し、
江戸時代の最高権力者であった、徳川将軍の「死」について
取り上げてきた。

今回は、前回、前々回に引き続き、
11代将軍から取り上げていく。

10代・家治の世継ぎである家基は18歳のとき、
鷹狩りに出かけた後、急死してしまう。
あまりにも急な死のため、その死には陰謀説さえつきまとうのだが、
真実のほどは、はっきりとしていない。
彼に替わり、御三卿一橋治済の子・豊千代が、
わずか9歳にて養子に迎えられ、11代・徳川家斉となった。
肉体は極めて健康で、8代将軍・吉宗と同じく
「白牛酪(バター)」を常食しており、武芸に優れていた。
精力も強かったらしく、16人の側室に57人の子供を設けている。
早寝早起きを心がけ、一年中薄着で通すなど、
現在でも通用するような健康法を、実践していた。
(もっとも、大人の健康法というよりは、子供の健康法だが……)
酒豪であり、壮年期には度々酒宴を催し、
その度に浴びるように飲酒を繰り返していたが、
不思議に乱れるようなことも無く、
歳をとってからは酒を控えていたという。
生来、内蔵が丈夫だったのだろう。
ただ、頭痛持ちであったらしく、終生、頭痛に悩まされていた。
先に書いたように、先代の息子である家基が不審死を遂げており、
その祟りを恐れていた、ということから、
一種の心因性の「頭痛」だったのかも知れない。
1841年、突然の腹痛に悩まされるようになり、体調を崩した。
そのまま、ひと月もたたないうちに亡くなってしまう。
何らかの「急性腹症」を発症した物と思われるが、
はっきりしたことは明らかになっていない。
享年69。
将軍としての在職期間は50年にも及び、
これは徳川将軍としてだけでなく、征夷大将軍全体としてみても、
最長の在職期間となっている。
なお、生きているうちに将軍職を退任し、大御所となった
数少ない将軍でもある。

12代将軍・徳川家慶は、11代・家斉の4男であったが、
彼の3人の兄が全て夭折したため、将軍職を継ぐことになった。
8歳のときに水痘を、28歳のときに痘瘡を患ったが、
無事に回復している。
父親である11代・家斉が、長く将軍職にあり、
さらに将軍職を引退した後も大御所として実権を振るい続けていたため、
彼が実際に権力を振るった期間というのは、かなり短い。
そういう関係性もあって、父親との仲は
余り良いものではなかったらしい。
1853年、夏の猛暑にやられ、暑気当りを患った。
これがあっという間に重症化し、発病から6日後にあっけなく亡くなった。
享年61。

13代・徳川家定は、12代・家慶の4男として生まれた。
家慶は、男女合わせて27人もの子供を残したが、
このうち、成人できたのは家定ただ1人であった。
そして彼自身もまた、生来の脳性麻痺のため手足が不自由で、
17歳のとき、重い疱瘡を患い、顔に醜いあばたが残っていた。
神経過敏で言語不明瞭であったことから、彼もまた、
一種の身体障害者であったのだろう。
こうして、この一族を見てくると、どうも一定の確率で、
身体障害者が生まれているようである。
特に、将軍家の子女の中には、若くして亡くなっているものが
驚くほど多い。
当時、将軍家の子女といえば、日本最高の医療を受けていたはずであり、
その状況下で、これだけの子供が命を落としていたというのは、
なんとも不可解なことである。
この不思議な現象の原因のひとつと考えられているのが、
大奥の女性が使っていた白粉である。
彼女たちは、顔から胸の辺りまで、白粉を塗りたくっていたのだが、
この中に人体に有害な物質(鉛白)が含まれており、
これが授乳の際に、子供たちに影響を与えていたものと思われる。
そういう意味では、将軍家ならではの悲劇だったともいえる。
ともあれ、家定もまた普段の立ち居振る舞いも満足に出来ないほど、
重度の障害を患っており、これを恥じた彼は
滅多に人前に姿を現さなかったという。
1858年、突然よろけて立ち上がれなくなり、
呼吸障害も患って、急速に体調が悪化して亡くなった。
享年35。
死因は、脚気によるものではないかと考えられている。

13代・家定には、跡継ぎとなる子供がいなかったため、
14代の将軍職を継いだのは、当時、紀州藩の藩主であった
徳川家茂である。
わずか13歳で将軍職についた家茂だったが、
甘いものに目が無く、虫歯が30本もあったという。
そのため、まともに食事を摂ることが出来ず、
虚弱体質であった。
虫歯が原因の虚弱体質というのは、かなり珍しいのではないだろうか?
彼が将軍職についたのは、まさに幕末の動乱期で、
彼自身も長州征伐に出征している。
しかし、この長州征伐が彼の命取りになる。
出征中、彼は両脚のむくみと脱力感を覚え、大阪城で病臥した。
医師たちの診断の結果は、脚気である。
「将軍は甘い物好きである」ということは、すでに知られており、
大阪城の彼の元には、公卿、大名、寺社から
様々の甘いものが届けられた。
これがいけなかった。
甘いもののとり過ぎは、ビタミンB1の消費を促して、
脚気を悪化させてしまう。
もちろん、これらを送った彼らに
そのような意図は無かったのだろうが、
結果として、これが将軍・家茂の命を奪う結果になった。
1866年、病は重症化し、彼は命を落とした。
享年21。
どこまでも、「甘いもの」が祟った将軍であった。

徳川家最後の将軍となる徳川慶喜は、長州征伐の最中で亡くなった
14代将軍・家茂の跡を継いで、15代将軍となった。
もちろん、世の中は最悪の混乱期といっていい。
そんな状況で将軍職を引き受けた彼の苦労が忍ばれる。
大きく傾く時流の中、彼は幕府存続、徳川家存続のために奔走するが、
ついに大政奉還し、政権を朝廷に返上することとなった。
そんな彼だが、その健康状態については極めて良好で、
将軍職を辞した後は駿府に引きこもり、以降は趣味人として
多彩な趣味に没頭する生活を送った。
老後は三度の食事にも注意を払い、一汁一菜、玄米飯といったものを
常食していた。
定期的な運動を心がけ、毎日邸内の廊下を1時間ほど歩いていたという。
現在でいう所のウォーキングであろうか。
将軍職から解放され、ストレスの少ない生活を送っていたせいか、
特に健康を害するようなこともなく、晩年まで過ごした。
1913年、風邪をこじらせ、急性肺炎となって死亡。
享年77。
これは歴代徳川将軍の中でも、最長命であった。

この一族の面白い所は、真面目で律儀な人間と、わりと自堕落な人間、
極めて健康的な人間と、極度の身体障害者が、
それぞれ交互に生まれてきているということだろう。
(もちろん、極度の身体障害者については、
 大奥の女性が使用していた、有害な鉛白を使った白粉が
 その原因なのだが……)
皮肉なのは、必ずしも真面目で律儀な人間が長生きするわけではなく、
自堕落な人間が、早く死ぬとも決まっていない点である。
この辺りが「死」というか、寿命というものの不思議な所だろう。

さて、ここまで15代にわたる徳川将軍の「死」についてみてきたが、
時の最高権力者の死に様は、まさに十人十色であった。
がん、脳卒中、餅を喉に詰まらせた、肺炎、脚気などなど。
21世紀の現代においては、脚気で亡くなる日本人は
ほとんどいなくなったが、それ以外の死因については、
現在でも、多くの日本人の命を終わらせている死因そのものである。
そう考えてみれば、いくら飛躍的に発展したとはいえ、
医療というものの力には、自ずから限界がある、ということだろう。

結局人間は、自分という人間の生き方をして、
自分という人間の死に方をする、というだけのものらしい。
そこではきっと、長いことも、短いことも、どうでもいいことである。

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