自分の住んでいるたつの市の最高峰は、大倉山である。
標高は520m。
高さとしては、それほどのものでもない。
麓から山頂まで歩いて登るということになれば、
片道2時間近くはみておかないといけないが、
この山はかなりの高さまで、車で登ることができる。
「菖蒲谷森林公園」が山中に整備されており、
ここまでは、きれいな舗装道路が続いている。
この「菖蒲谷森林公園」から登れば、
30分とかからずに山頂に達することができる。
我がたつの市の最高峰は、お手軽に登れる山なのだ。
この「菖蒲谷森林公園」の中に、「車池(くるまいけ)」と呼ばれる、
大きな池がある。
森林公園のはずれにあるので、あまり人はやってこない。
狩猟シーズンに、渡り鳥を撃ちたいハンターがやってくる程度だ。
なんとも寂しい池なのだが、ここにはひとつの伝説が残っている。
ちょっと書き出してみよう。
昔、この池には大蛇が棲むといわれていた。
ある年、大雨が降り続き、麓の村は一面の水浸しになってしまった。
村人達は神社に集まり、これは池に棲む大蛇が怒っているのだと話し合った。
やがて誰ともなく、大蛇の怒りをとくには、
若い娘を大蛇の嫁にするほかはない、ということになった。
しかし、誰を大蛇の嫁にするかということになると、
村人達は尻込みをして、自分の娘を差し出すという人はいなかった。
そんな中、貧しい家の娘が「自分が行きましょう」と言い出した。
結局この娘が、大蛇の嫁になることになり、
いつも愛用していた「糸車」をひとつ持ち、かごに乗って池に向かった。
娘を池のほとりにおろすと、村人達は逃げるようにして帰っていった。
しばらくすると、降り続いていた雨は止み、かごの前に1人の若者が現れた。
若者は娘の手を取ると、そのまま池の中に入っていった。
村人達は、娘の墓を作り、犠牲になった娘を祀った。
やがてこの池から、毎夜のように糸車の音が聞こえてくるようになった。
村人達は、あれは娘が生まれてくる子供のために、
糸を繰っているのだろうと、うわさしあった。
いつしか人々はこの池を「車池」と呼ぶようになった。
……よくある名前由来物語である。
「車池」の名前の由来は、「糸車」であることがわかる。
この物語に出てくる大蛇のサイズも、しっかりと設定されており、
それによれば、鱗1枚につき1斗(約18ℓ)の水を持ち、
口から吐き出す水は、竜巻になるという。
これが事実であるとすれば、大蛇とかいうレベルのサイズをはるかに越えている。
まるでゴジラかキングギドラだ。
どう考えても、池の中に収まっている大きさではない。
口から竜巻を吐くあたりなど、ますます怪獣っぽい。
さらに伝説によれば、麓の村が一面の水浸しになっていたという。
菖蒲谷の麓にある村は「新宮」といい、
扇状地になっているたつの市揖西町の、一番上の部分である。
ここの村が一面の水浸しになっているということは、
すでに揖西町全体が水の底に沈んでいることになる。
村人達は、のんきに神社の中で話し合いをしていたが、
とても、そんな余裕はないであろう。
揖西町全域が巨大な湖と化し、
もちろん、それより低い位置にある揖保川町などでは、
人家の屋根も残らぬほどに水没し、死者行方不明者が数えきれぬほど出る。
人々は着の身着のまま、近くの山に避難し、
一面の水面と化した故郷を見て、ただ呆然とするのみである。
まるでノアの方舟の世界だ。
さすがに、こんなことが起こったとは思えない。
さらになぜ大蛇が怒ったのか?
その理由については、全く語られていない。
後にこの大蛇の化身と思われる若者が出てくるが、全く怒っている気配がない。
村人達が嫁を用意した所で怒りが静まったようだが、
そもそもが嫁がいないことで怒り狂うというのは、不自然極まりない。
最近の婚活女子などを見ていればわかる通り、
相手がいなければ、怒りの感情よりも焦りの感情の方が先に立つはずだ。
大蛇が怒っていると感じたのは村人の勘違いで、
実は大蛇は焦っていたのかもしれない。
なんともちぐはぐな物語だ。
このちぐはぐな物語の中で、キーポイントになっているアイテムがある。
「車池」の名前の由来にもなった、「糸車」である。
これは別名「糸繰り車」ともいい、綿・麻・絹などの天然繊維から
糸を紡ぎ出す道具だ。
日本独自の道具ではなく、世界的に同じような構造の道具が使われていた。
日本で使われていたものも、国内で作られたものではなく、
海外からもたらされたものである可能性もある。
これが、いつごろから使われていたのか、はっきりした記録はないが、
日本では主に、綿花から糸を紡ぎ出すのに使われており、
それを踏まえた上で考えると、
綿花栽培が一般化した江戸時代以降のことだと思われる。
このことから、「車池」の伝説が成立したのは、
江戸時代のことだろうと推測できる。
ただ、この娘が紡いでいたのが綿花であったかどうかは、はっきりしない。
江戸時代には全国的に、綿花栽培が盛んになっていたが、
龍野は童謡「赤とんぼ」の中にも出てくるように、桑を栽培していた。
また揖西町の古代の呼び名は「桑原の里」であることからも、
もともと桑が数多く自生していた可能性が高い。
桑は蚕の餌になる。
そうなると、綿花を紡いでいた可能性よりも、
蚕を紡いでいた可能性の方が高いはずである。
今回は、「車池」の伝説の時代背景について、考察を行なってみた。
次回は、なぜ、このような物語が作られたのか、
その物語設立の背景について、考えていきたい。