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戦艦大和・記憶の歴史〜その1

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By: *Yaco*

少し前、戦艦長門について書いた際、
このようなことを書いた。

「戦艦大和をはじめとする大和級戦艦は、
 軍部内でも極秘扱いであったため、
 太平洋戦争中、一般人たちはその存在を知らなかった」

もし、これが事実であるとすれば、
現在、一種の神話のごとく語られている戦艦大和の姿は、
戦後、その姿を知らなかった人々によって
作り上げられたことになる。
果たして当時、本当に庶民たちは
大和の存在を知らなかったのだろうか?
そんなことがあり得たのだろうか?

冷静に考えてみれば、これはかなり怪しいといえる。
軍事機密ゆえに、軍部内での情報統制は
きっちりとなされていたかも知れないが、
一度、進水してしまえば、
日本近海を普通に航行するのである。
特に瀬戸内海のような内海を航行するのであれば、
どうしたってその姿を隠しきるのは不可能である。
何せ大和は全長263mもある、巨大戦艦なのだ。
そんなものが浮かんでいれば、
どうしたってどこかで人目につくはずである。
仮に、名前などが分からなかったにせよ、
化け物のように巨大な戦艦、
それも従来の戦艦とはスタイルの違うものが
航行していれば、少なくともその存在が
完全に隠蔽されていたとは、とても思えない。
少なくとも一部では、名前こそ分からないものの、
戦艦長門(こちらは良く知られていた人気戦艦だ)より、
明らかに巨大な戦艦が存在していることは、
口伝てに噂になっていたに違いない。
それが、あからさまに公開されなかったのは、
それが戦時中の「軍」に関するものだったからだろう。
そんなことをペラペラと喋っていたら、
「軍」によってどんな目に遭わされるか、わからない。
かくして戦艦大和の姿を目撃した人も、
そのことを大々的に話すことをせず、
ごく信用のおける人間の間でのみ、
「噂」として伝えられたのだろう。

実際、軍部の中でも大和型戦艦の存在は極秘であったのだが、
当時の作家・伊藤整などは知人から、
1943年の段階で、大和級巨大戦艦の情報を得ている。
「少々内輪に見ても六万屯級」、
「大和とか武蔵とかいう超大級の戦闘艦」、
「そういう大きな、まだ国民に発表していない
 軍艦が5、6隻はできているらしい」、
という情報であり、最後の情報以外は全くその通りであった。

戦中、民間の「噂」レベルで囁かれていた巨大戦艦の情報は、
戦後、新聞や雑誌などの手によって明らかにされることとなった。

公式に明かされた、戦艦大和の情報は、
現在の我々が知っている情報と大差なく、
そのサイズ、容姿、武装、技術など、
細やかな情報が明らかにされた。
雑誌などに載る記事の論調としては、
戦艦大和に用いられた優れた技術力を賞賛するものや、
逆に戦中、全く役に立たなかったことを
厳しく批判するものなどであった。
これらによって、戦中、
「噂」のレベルでしか存在していなかった
戦艦大和の情報は、人々の間に知られていくようになる。

そのような状況の中、
かつての大和の乗組員・吉田満によって
1冊の小説が上梓される。
それが「戦艦大和ノ最期」である。
筆者である吉田満は、学徒出陣において海軍に入隊、
大和に上艦し、そのまま沖縄特攻作戦に参加し、
かろうじて命を拾った人物である。
彼は銀行勤めのかたわら、自らの体験を小説という形で執筆、
これを「戦艦大和ノ最期」という小説にまとめたのである。
当初、公開の予定はなかったものの、
知人に勧められ、1949年、雑誌サロンに
「戦艦大和」という題で掲載され、
同年のうちに「軍艦大和」という名前で、
単行本として発行される。
ただ、これは吉田の書いた文語体ではなく、
進駐軍の検閲しやすい口語体での出版であった。
彼が書いたままの「戦艦大和ノ最期」は、
1952年、米軍による占領の終了後に発行されている。

この「戦艦大和ノ最期」は、この後に作られる戦艦大和関連の
映画、ドラマ、小説等に多大な影響を与えている。
戦後に製作された、いわゆる「大和もの」と呼ばれる
数々の作品においては、クライマックスの沖縄特攻作戦について、
この作品の影響を色濃く受けているものが、非常に多い。
何せ、数少ない、沖縄特攻作戦を身をもって体験した
人間による執筆なのである。
戦艦大和の最期について、
これ以上の資料はないと言ってもいい。

この小説の中で、沖縄特攻作戦で死ぬ意味について、
論争が起きる場面がある。
かたや「死ぬ意味が分からない」とし、
かたや「天皇のために死ぬのだ」と言い切る。
この大和の沖縄特攻作戦が、
生還を期さない特攻作戦であることは、
すでに艦長によって、全乗員に伝えられている。
神風特攻隊が、建前上は志願という形をとっていたのに対し、
こちらの方は、全く突然に、かつ有無をいわせず、
死ぬことを強要されているのだ。
(実際は、戦局の逼迫状況から、次に出撃があれば、
 それが最期の作戦(特攻作戦)になることを、
 感じている者もいた)
その状況を考えれば、こういう論争が起きるのは必然だろう。
論争が紛糾し、一触即発の状態になったとき、
臼淵磐大尉の

「進歩のない者は、決して勝たない。
 負けることが最上の道だ。
 日本は進歩ということを軽んじすぎた。
 私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた。
 敗れて目覚める。
 それ以外に、どうして日本が救われるか。
 今日目覚めずして、いつ救われるのか。
 俺たちはその先導になるのだ。
 日本の新生に先駆けて散る。
 まさに本望じゃないか」

の言葉によって皆、納得し、収まるのである。
大和沈没後の日本の運命までを、
ピタリと言い当てた、含蓄のある言葉である。
後の映画や、ドラマにおいては欠かせない名シーンである。

しかし、深い感動を呼ぶこのシーンに関しては、
実際には、そのような事実はなかったとする証言もある。
当の臼淵大尉が当時、まだ21歳であったため、
そこまでのことを見通し、言葉にできたのかという疑問である。
しかし、戦艦に乗り、戦争を行ない、
目の前でいくつものを死を見てきた臼淵大尉には、
自分の死というもの、また日本という国の未来について、
深く考える機会が、絶対にあったはずである。
で、あれば、彼がそこまでの考えに至っていたとしても、
決しておかしなことではないだろう。
戦中の21歳と、戦後の21歳の間に、
大きな意識の隔絶があったとしても、無理はない。

他の生存者の意見の中には、
皆、戦意が高揚しており、「アメ公見ておれ」といった
気分にある中で、日本の敗北を示すようなことを
言うはずがないというものもある。
しかし、全く突然に「死」を要求された大和の乗組員たちは、
果たしてそこまで一致団結した意志に
統一されていたのだろうか?
大挙して特攻命令を聞いたときには、周りに流され
それを受け入れたとしても、
あらためて、自らがこれから従事する作戦の意味、
自らの「死の意味」を問い直した際に、
様々な思惑が噴出したのは、無理のないことだろう。
そんな中で、小説の中のような出来事が
起こっていたとしても何ら不思議なことではない。
何といっても、当時大和には
3000名以上の乗員が乗り込んでいたのだから、
彼ら全てが疑問を持たずに死を受け入れたとは、
思い難いのである。
夜、その思いを吐露する場面があったとしても、
それは決して不自然なことではない。

今回は、戦中、秘されていた大和が、
戦後、様々な媒体で取り上げられ、
そして決定的な資料ともいえる、
「戦艦大和ノ最期」の出版までを追ってみた。
次回は、戦後、人々の記憶の中で生み出された大和が、
どのように扱われていったかに迫ってみる。

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