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検証・三本卒塔婆伝説

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かつて、このブログで「光明山大蛇伝説」を
取り上げたことがある。

その際、光明山付近に伝わっている伝説として、
「三本卒塔婆」伝説を取り上げた。
これは相生市に伝わる有名な伝説の1つで、
聖徳太子の部下であった、秦河勝が主人公である。

秦氏は6世紀ごろに朝鮮半島を経由して日本にやってきた
渡来人の一族である。
そのルーツは秦の始皇帝であるとも言われており、
河勝は、その秦一族の族長であったといわれている。
山城国葛野出身であった彼は、聖徳太子の側近であり、
また富裕な商人であったとも言われている。
亡くなったのは、赤穂の坂越であるとされており、
坂越の生島には秦河勝の墓がある。
伝説によれば、蘇我入鹿に憎まれた河勝は
赤穂へ逃れてきたという。
この点を考えると、秦河勝にとって、
まさに晩年の出来事だったのかもしれない。
ここで、相生市に伝わっている「三本卒塔婆」の伝説を
書き出してみよう。

聖徳太子の臣下であった秦河勝は、蘇我入鹿に憎まれて
赤穂に逃れた。
河勝が矢野の里へ狩りに出て、桜の木の下で休んでいると、
三匹の愛犬が激しく吠え続けた。
三匹の犬に吼えぬように命令したが、犬たちは聞かず、
ついには河勝の足に噛みついたという。
怒った河勝は、刀を抜いて犬たちの首を刎ねてしまった。
犬の首は宙を飛んで、河勝に襲いかかろうとしていた
大蛇に噛みついた。
河勝は犬たちに泣いて詫び、手厚く葬った。
その際、愛用の弓を3つに折って、卒塔婆代わりに立てた。
それ以降、この地を「三本卒塔婆」と呼ぶようになった。
その後、この地を訪れた弘法大師が、石の塔を立てた。
それからは、この石の墓を「犬塚」と呼ぶようになった。

「光明山大蛇伝説」で取り上げたときは、
この大蛇が問題だったのだが、
今回のポイントはそこではない。

この話の中で、2つの超常現象が起こっている。
ひとつは大蛇の存在である。
伝説によれば、この大蛇は全長5mとも、
10mともいわれている。
当時の日本に、そこまで巨大になるヘビが棲息していたとは
思えない。
そしてもう1つは、宙を飛び、大蛇に噛みついた犬の首である。
こちらは犬の忠誠心を表す、超常現象だ。
犬たちの主人を思う気持ちが、犬の首を飛ばした……、
なんて風に解釈される所だろう。
ここの部分を取り除いてしまえば、
短気を起こして犬を殺してしまった河勝が、
弓を折って卒塔婆の代わりに立てた、というだけの話になる。
しかし、たったこれだけの話の中に、
とんでもない「矛盾」が隠されているのである。

まず、この話のキーアイテムとなっている
「卒塔婆(そとば)」について書いていこう。

墓地を見て回ると、
墓石の他に、墨によって字を書かれた「板」が立てられている。
板を良く見てみれば、普通の長方形の板ではなく、
先端が尖っており、
サイドにいくつかの切れ目が入っている。
この「板」こそが「卒塔婆」である。

もともと「卒塔婆」は、ストゥーバと呼ばれていたものを、
無理矢理、漢字に置き換えたものだ。
そしてこのストゥーバは、
仏舎利(お釈迦様の遺骨)を納めた仏塔のことであった。
もちろん、仏舎利には限りがある。
どんなにがんばってみた所で、人間一人分の骨しかないのだ。
ストゥーバを作れば作るほど、仏舎利は減っていき、
しまいには仏舎利の代わりに、宝石や経文、
高僧の遺骨などを納めるようになった。
このストゥーバが、中国を経て日本に入ってくると
「卒塔婆」というものに変わっていた。
元来は、お寺にある五重塔や三重塔、多宝塔などの仏塔が
「卒塔婆」ならぬストゥーバであったが、
やがてこの他に石塔や金属塔なども作られるようになった。

さて、ここまででも分かるように、
もともと「卒塔婆」は、墓標というべきものではなかった。
素材にしても、現在のような木の板ではなく、
全く普通の建造物であったり、石や金属が使われていた。
現在のような板を使った「卒塔婆」を
使うようになったのは、平安時代に入ってからである。
この板「卒塔婆」は、サイドに切れ込みが
入っていることからも分かるように、
もともとは「石塔」を模して作られたものである。
用途に関しても、これまでの「仏舎利を納めたもの」から、
「死者の供養のためのもの」へと変化した。
つまり、墓標的な意味を持った「卒塔婆」は、
平安時代以降のものなのである。

そうなると、おかしなことになってくる。
秦河勝が生きていたのは、平安時代よりもはるか前の時代、
古い言い方をすれば、飛鳥時代である。
その時代の人間が、弓を折って
「卒塔婆」代わりにしようなどと考える筈がない。
確かに秦河勝は、聖徳太子に仕えていた人物である。
聖徳太子は仏教を日本に広めるのに
大きな役割を果たした人物なので、
その臣下であった河勝が、仏教についての知識があっても
それほどおかしくはない。
だが、時代的に考えると、墓標としての「卒塔婆」を
作るという考え方自体、まだ無かった時代なのである。
後年、弘法大師が訪れ、石塔を造ったことになっているが、
この時代でさえ、板「卒塔婆」はまだ登場していないのである。

相生市矢野町には、
いくつかの「大蛇伝説」が残っていること、
石塔が残っていることなどから、
この伝説に近い出来事が起こったのは、事実かも知れない。
しかし、「卒塔婆」の歴史を考えると、
そこには時代的な矛盾が生じてしまう。
恐らくは、元々あった昔話に、
秦河勝という地元に関係のある有名人や
弘法大師伝説が習合されて作り出されたものが、
「三本卒塔婆」の伝説なのだろう。
この伝説の出典を調べてみると、
1747年に記された「播州赤穂郡誌」や、
1762年に記された「地誌 播磨鑑」にこの伝説が載っている。
秦河勝の時代に起こったのであれば、
まず何より地名伝承の1つとして
「播磨国風土記」に載っている筈なのだが、
「播磨国風土記」には、矢野町を含む「赤穂郡」の記述が
欠落している。
もし、この「三本卒塔婆」の伝説が、
「播州赤穂郡誌」によって初めて世に出たのなら、
秦河勝の時代から1000年以上たっていることになる。
恐らく後世、それも板「卒塔婆」がごく一般的になった時代に、
似たような事件を元にして作られた創作であろう。

この「忠犬たちの伝説」は、
時代を超えた矢野町の「大蛇伝説」とともに、
現代まで語り継がれている。

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