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年賀状〜その1

更新日:

先日、年賀はがきお年玉くじの抽選発表があった。

もともと自分は、年賀状というものを全く出さない。
子供のころは親に言われるままに、親しい友人などに
何通かは出していたのだが、ある程度、大人になってしまうと
その何通かすら出さなくなってしまった。
そんな自分であるから、お正月に我が家に届く年賀状というのは極めて少ない。
片手で数えるに足る、というか片手の半分ほどの数しか来ない。
そんな自分であっても、一応、お年玉くじの結果というのは気になるもので
発表されるや、すぐに手持ちの年賀状の番号を確認したのだが、
まあ、こんな不心得者にラッキーなど訪れるはずもなく、
最下等の切手シートすら、1枚も当たらぬ体たらくであった。

しかし、改めて考えてみると、この「年賀状」という風習、
何ともミョーなものである。
普段、手紙など全くといっていいほど書かない人間が、
毎年、年末になると年賀はがきを何十枚、何百枚などという単位で買い込み、
忙しない師走のわずかな時間を使って、一生懸命「年賀状」を書いていく。
その宛先にしても、その年1度も顔を合わさず、
声も聞かなかったような人たちにまで至っており、
長く「年賀状」を出し続けている相手の中には、
もはや「年賀状」のやり取りでしか繋がりがないような人も、多いらしい。
こうなってくるともう、毎年ほぼ惰性的に「年賀状」を出しているといっても
過言ではないだろう。

はたしてこの「年賀状」という風習、
一体、いつごろから行なわれているものなのか?

当然のことながら、「年賀状」というものが成り立つには、
文明的、文化的にいくつかの条件をクリアしていなければならない。
簡潔にそれらを書き出してみると、

・暦が誕生している
・文字が誕生している
・文字をしたためたものを運ぶ、交通手段がある

ということになる。
あまりに原始的すぎて、バカにしてんのか!と、突っ込まれそうだが、
少なくともこの3つの条件が満たされていなければ、
「年賀状」というものは、根本から成り立たないことになる。
一応、1つ1つの条件を見ていこう。

まず「文字が誕生している」という条件。
最近では、絵はがきなど絵や写真を主体としたハガキもあるのだが、
それでも文字というものが全く排されたハガキというのは存在しないだろう。
文字が無ければ、相手にこちらの意思を伝えられないし、
何より届け先の宛先を記すことも出来ない。
そして、これに続いて必要なのが、
「文字をしたためたものを運ぶ、交通手段」である。
もちろん、原始的なことを言えば、ここには徒歩というものがあり、
ちょっと時代が下れば、これに馬や舟が加わり、
さらに時代が下れば、自動車や飛行機が加わってくることになる。
もちろん、これら各種の交通手段が成り立つためには、
道路や鉄道の整備、港や空港の建設などといった交通インフラの確立も
絶対条件ということになる。
そして残る1つの「暦が誕生している」という条件。
送るハガキ・手紙が全く普通のものであるのならば、
「文字の誕生」と「文字をしたためたものを運ぶ手段」さえあれば
それはちゃんと確立されることになるが、
ここに「年賀状」という条件を付け加えるのであれば、
「暦の誕生」というのは、欠かすことの出来ない絶対の条件となる。
少なくとも「年」という概念が生まれなければ、
新年を祝う行事も、それに伴う新年の挨拶も存在し得ないからだ。

ここで我が国に目を向けてみよう。
我が国に「暦」が伝わったのは6世紀の中ごろ、
そしてそれが大和朝廷によって正式に採用されるのは、7世紀の初めになる。
すでに文字は紀元前後辺りに日本に入ってきていたのだが、
これを書き付ける「紙」が容易に手に入るようになったのは
はるか後代のことで、奈良時代などは木簡と呼ばれる
木や竹で出来た札(簡)に文字を書いていたようである。
7世紀の中ごろには大化の改新によって様々な制度が整えられ、
政治的な伝令書を届けるために畿内各所に駅馬を置く「飛駅使」制度が始まる。
この制度によって、畿内各地に伝令の木簡が届けられたのだろう。
恐らく、我が国で最初の年賀の木簡も、このころに送られたはずであり、
それこそが我が国で最初の「年賀状」ということになりそうだ。
ただ、残念なことにその辺りについての詳しい資料というのは残っていない。
平安後期に藤原明衡によってまとめられた
往来物(おうらいもの・手紙文例集)「雲州消息」の中には、
年始の挨拶を含む文例がいくつか収められていることから、
少なくともこの時代には、貴族階級の間では離れた場所にいる相手に
「年賀の書状」を送っていたものと考えられる。

その後、中世・戦国期を経て、「駅伝」「飛脚」制度が徐々に確立していき、
戦国時代には戦国大名が賀詞を述べた書状なども見つかっているのだが、
江戸時代に入ると、街道の整備と共にいよいよ「飛脚」制度が充実していく。
江戸時代も中期ごろになると、町人文化の爆発的な隆盛と共に
「手紙を出す」という文化が武士階級から庶民階級にまで広がっていった。
その背景には寺子屋などによる庶民階級の急速な識字率の向上があり、
江戸時代の後期には、日本は世界一識字率の高い国になっていた。
そうなってくると、当然、その手紙の中に「年賀の書状」が
含まれているのは、ある意味必然といっていいだろう。
ただ、いかんせん、このころの「飛脚」制度は
あくまでも人の足によって「手紙」を運ぶものであったので、
かならずしも元旦(1月1日)に届くというようなことは少なく、
かなりのんびりとしたものだったようである。

やがて江戸時代が終わり、明治時代がやってくる。
そしてこの明治時代に、ある1つの大きな制度が始まった。
そう、「郵便制度」である。
旧幕臣でありながら新政府の要職に就いた前島密は、
イギリスで当時世界最先端であった郵便事業を見て回り、
日本への帰国後、近代郵便制度を発足させ、郵便の全国網を作り上げた。
これは全国一律料金で日本国内どこへでも手紙を送れるというものであり、
現代のそれにほぼ近しいものであった。

そして郵便事業が開始されてからわずか2年後、
現在の「年賀状」に大きな影響を及ぼす、ある商品が発売される。
それが「郵便はがき」である。
これは、当時のヨーロッパで急激にその需要を伸ばしていた
定額の簡易郵便「ポストカード」をモデルにしたもので、
日本ではこれが1873年に発行されている。
日本での郵便事業の開始からわずかに2年。
それどころか、ヨーロッパにおいて「ポストカード」制度が始まったのが
1869年のことであったので、それにもわずか4年しか遅れていない。

新時代の到来と共に発足した日本の「郵便制度」は、
たちまち世界最先端のそれと肩を並べるほどの完成度を見せたのである。

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