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記憶に残る「船」〜コンティキ号

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By: Ik T

ここまで4回に渡り、「記憶に残る船」ということで、
4隻の船を紹介してきた。

第1回は、初めて世界1周を成し遂げた「ヴィクトリア号」。
第2回は、航洋クリッパーの最高峰である「カティサーク号」。
第3回は、大鑑巨砲主義の始まりの戦艦「ドレッドノート」。
第4回は、世界一知られた悲劇の船「タイタニック号」。
ここまでに紹介してきた船は、程度の差はあれ、
その時代において、最先端の技術を駆使して建造されていた。
いわば、時代の最先端の「船」だったわけである。

だが、今回紹介する「コンティキ号」は、
この括りから外れてしまう船である。
と、いうよりは、
これまでに紹介したどの船よりも、新しい時代に作られながら、
これまでに紹介したどの船よりも、原始的な船という、
一見、ワケのわからないことになっている。
一体「コンティキ号」とは、どのような船なのだろうか?

ノルウェー人の探検家トール・ハイエルダールは、
太平洋における古代人たちの移動について、
従来の説とは、全く正反対の説を唱えた。
従来の説では、およそ5000年前、
南アジアの人々のうち、西に移動したものはインド洋に住み着き、
東に移動したものは太平洋の島々に住み着いた、と考えられていた。

だがハイエルダールは、このうち、太平洋のポリネシア人は
南アジアから東に移動してきたのではなく、
南米大陸から西に移動してきたのだと、提唱した。
その根拠としては、イースター島のモアイ像と、
ペルーのインカ帝国時代の巨石像のデザインに
類似性があったからである。
だが、このハイエルダールの説に、
当時の学会は否定的な見解を示した。
何千年も前の、南米の材料と技術では、
そのような長距離を移動する「船」は作れないと
考えたからである。
1947年、ハイエルダールは
当時の南米の材料と技術でも、
太平洋を渡る「船」を作ることが出来た、ということを証明するため、
南米のバルサ材、およびその他の地元の材料を使い、
インカ時代の船を模した「いかだ船」を作り上げた。
この「いかだ船」こそが「コンティキ号」である。
「コンティキ」という言葉は、
インカ族の太陽神の名前にちなんでいる。

……。
ここで、ん?と思った人もいるだろう。
作り上げたのが、「船」でなく「いかだ船」となっているからだ。
「いかだ」なのか、「船」なのか、
そこの所をハッキリしろ、という声が聞こえてきそうである。
そもそも、「船」と「いかだ」は、何がどう違うというのか?

基本的に「船」というものは、構造として
水を押しのけた空間を確保しており、
その押しのけた水の量と同じだけの「浮力」を得て、
水の上に浮かんでいる。
そのため、この水を押しのけた空間に、
何らかの理由で水が入ってくるようなことになれば、
「船」は浮力を発揮することが出来なくなり、沈んでしまう。

一方の「いかだ」は、「船」のように
水を押しのけて浮力を生み出すのではなく、
「いかだ」を構成する個々の部材が持っている
浮力のみに依存して、水上に浮かんでいる。
そのため、水をかぶろうが、基本的には沈むことが無い。
ただ、その構造上、「いかだ」上に積載できる貨物の量は
かなり制限されてしまい、その積載量が
「いかだ」の持つ浮力を超えた場合、
その超えた分だけは、水面下に水没してしまうことになる。

では、この「コンティキ号」が「いかだ」だったのか、
「船」だったのか、ということになれば、
これはハッキリと「いかだ」だった、と答えざるを得ない。
バルサの丸太と、マツの板を、麻のロープで縛ったものが、
「コンティキ号」の基本的な構造物であり、
これをタケの甲板で覆い、タケで組んだ小屋を乗せた。
小屋の屋根は、バナナの葉で葺かれていた。
また、マングローブ材を組んでマストを作り、
これに主帆を1枚、さらにその上に小さな帆を1枚かけ、
船尾にも小さな帆を1枚、張れるように作られていた。
船尾には、マングローブとモミで作った舵取りオールが取り付けられ、
バルサ材の間から水の中へと、
マツの板で作ったセンターボードを下ろしていた。
丸太を結びつけただけの単純な「いかだ」ではなく、
かなり「船」を意識した構造物が、取り付けられていたわけである。
「いかだ」自体のサイズもかなり大きく、
長さが14m、幅が7.5mもあった。

だが、この「コンティキ号」を見たベテランの船乗りたちは、
口を揃えて、この「いかだ船」で太平洋を渡るのは無理だと言った。
ハイエルダールは、この航海には最低でも
3ヶ月程度の期間がかかると踏んでいたが、
その間に、この木製の「いかだ」は、
浮いていられなくなるだろうというのである。
先述したように、「コンティキ号」のサイズはかなり横幅があり、
舳先が尖っていない形状で、帆が小さかったために、
思うようには進めないだろう、という人もいたし、
「いかだ」を縛っているロープは、すぐにすり切れて
「いかだ」はバラバラになってしまう、という人もいた。
さらに「いかだ」に使われているバルサ材が水を含み、
すぐに沈んでしまうに違いないと、決め込む人もいた。
ハイエルダール自身は、古代の南米人たちが
「いかだ」を作って海を渡ったことを信じていたが、
だからといって、自ら作り上げた「コンティキ号」が、
同じように太平洋を渡っていけるか?ということになると、
これはまた、はっきりとした確信は持てなかった。

1947年、ハイエルダールは
仲間とともに「コンティキ号」に乗り込み、
沿岸を行き交う船が無くなる海域まで、
海軍のタグボートで曳航してもらい、
その後は、単独でフンボルト海流に乗り、太平洋を西に進んでいった。
「コンティキ号」には、1040ℓの真水、ココナッツ、サツマイモ、
さらに若干のアメリカ軍の軍用食を積み込まれていた。
さらにこれらの食料を節約するために、
漂流中は魚を捕まえて、これを食料とした。
もちろん、安全な航海のために六分儀や時計といった航行機器や、
各種無線装置や、発振器なども積み込んであった。
さらに漂流中は、アマチュア無線により
ノルウェーをはじめとする世界各国と交信を行なっていた。

108日後、「コンティキ号」はツアモツ諸島の
ラロイア暗礁に乗り上げた。
そこは出発地点から8000km近く離れており、
平均時速になおすと、約2.8kmというスピードの漂流だった。
およそ3ヶ月以上に及ぶ漂流であったが、
出発前に危惧されていたように、
「コンティキ号」はバラバラになることも、沈むこともなく、
浮かび続けていた。

こうしてハイエルダールは、古代南米人たちが
太平洋を渡ることが出来たということを証明してみせた。
だが、学会の大半の科学者たちは、
実際にその航海を、古代人たちが行なったとは認めなかった。
……。
まあ、たしかにハイエルダールが証明したことは、
「古代人たちが海を渡ることが出来た」という証明であり、
「古代人たちが海を渡った」という証明ではなかったのだから、
科学者たちの言い分も、もっともなのであるが……。

この後、ポリネシア人の遺伝子解析によって、
ハイエルダールの説は、ある程度証明された。
ポリネシア人の遺伝子の中に、南米の先住民に発見された遺伝子が
混じっていたのである。
ただ、ポリネシア人のほとんどの遺伝子は、
かれらが南アジアから渡ってきたことを証明していたので、
これに関しては、どちらの説も間違いではなかった、
ということだろうか。
この件に関しては、現在でも、否定的な意見も多い。

結果的に、ハイエルダールは
自分の説を証明することは出来なかったものの、
自分の説を証明するために、実際に「いかだ」を作り、
海に漕ぎ出していったその行動力は、高く評価され、
現代でも、彼に敬意を持つ人間は多い。
机上において空論を戦わせるだけでなく、
それを証明するために行動を起こす、その行動力は、
後の学者たちにも、大きな影響を与えたのではないだろうか。

「コンティキ号」は、その象徴のような「船」なのである。

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